今週のメッセージ2013.12.1

「からだのよみがえり」を信ず

 

前回(11/24)は使徒信条から離れましたが、11/17「聖徒の交わり」を取り上げ、11/10には「罪の赦し」を取り上げましたので(順序的には逆になってしまいましたが)、今回は「からだのよみがえり」を取り上げることにします。

なぜ、「からだの」を付けるのか。「よみがえり」あるいは「復活」だけではいけないのか。「よみがえり」あるいは「復活」という場合、いわゆる“霊魂のよみがえり”、“霊魂の復活”という具合に“霊魂”に限ってのそれと誤った考えを持つ向きがあります。

創造主なる神が人を造られた時、創世紀27あるように、人をからだを持った者として造られました。からだを欠いた人間はあり得ないのです。従って救いの完成時においてもからだを持っているのが当然です。「眠りについた人たちの初穂」として復活されたキリスト(Tコリ1520)はからだを持ったキリストでした(ヨハネ2027,21912参照)。但し、現世のからだと復活のからだとの間には連続している面と不連続の面があり、現世のからだがそのまま復活するわけではありません(ヨハネ2019参照)。故に、敢えて「からだのよみがえり」と告白するのです。

救いが完成された様子はヨハネ黙示録21章以降で垣間見ることが出来ます。そこには、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(213,4とあります。「よみがえり」「からだ」が伴っているからこそ、涙への言及もあるわけです。