今週のメッセージ201/02/16)

主イエス、誘惑を受ける(3)

 

40日もの長きにわたる断食をされた主イエスに、サタンは、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(マタイ4:3)と誘った。この誘惑は神の御子イエスだからこそ通じるものであった。何故なら、イエスにはそれは可能だったからだ。しかしその誘いの本質は、先週記したように、御父に従うことは止めにして、自分の考え、自分の力で危機を脱することへの誘いであった。これを本質とする誘惑は、われらの日常にもつきまとうものと言わねばならない。

イエスはこの誘いに対し、どのように応戦されたのだろうか。それは神の御言葉によるものであった。4節に次のように記されている。「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。

それは旧約聖書中の申命記8:2,3の次のような言葉の中の下線の部分の引用であった。即ち、「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

われらが日々パンを食して生きていくのも、詰まる所、創造主なる神の御旨に従い、それを担うことが目的なのだ。その的を外した生き方は、空しいものとなってしまう。マタイ1626には、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」とある通りである。