今週のメッセージ201/02/08)

主イエスの荒れ野の誘惑(1)

 

先週記したように、マタイ福音書では洗礼者ヨハネの活動を伝える記事(31〜)と主イエスの救い主としての活動開始の記事(412〜)との間に二つの記事――@イエス、洗礼を受ける(31317) A誘惑を受ける(4111)――が置かれています。@については先週記したので、今週はAについて取り上げます。

書き出しは、「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」で始まっています。救い主としての働きを開始されるに先立ち、主イエスが荒れ野に赴かれたのは、「悪魔から誘惑を受けるため」であり、それは「“霊”に導かれて」のことでありました。

四十日四十夜の断食の末のことでしたから、主イエスにとって身体的生命の危機に瀕した状況であったことが容易に伺えます。攻撃の隙を待ち受けていたサタンは、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(3節)と第一の攻撃の矢を放ちました。「神の子なら」は、仮定というよりむしろ「神の子なのだから」のニュアンスです。神の子なのだから、やろうと思えば出来るではないか。石をパンに変えて、それを食べて危機を脱したらよいではないか、というわけです。そこには、神の子としての権能を自分のために行使することへの誘惑が潜んでいました。

それに対する主イエスの対応は、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある」(4節)でした。旧約聖書・申命記83の言葉を盾にして主イエスはサタンの誘いを退けられたのです。そこには、御父の御心に従うことを最優先させる生き方が示されていました。だからこそ、十字架の死によるわたしたちの罪と死からの贖いの救いが実現したのです。