今週のメッセージ201/09/13)

聖書朗読

 

 わたしたちの教会では、礼拝において聖書朗読を教会役員が担当しているが、牧師として考えさせられるこがいくつかある。

 教会によっては聖書朗読中は遅刻者の入室を禁じている。わたしたちもそれに倣っている。また朗読者にもその重さを感じて奉仕することを日頃から求めている。

 これは偏に聖書が神のことばであることにその源を持っている。

 主イエスご自身が、ルカ福音書4章を見るならば、朗読されるとき、起立してなさっておられる。そして朗読を終えると巻物を係の者に返して座られて話し始められたと記されている(16,20,21節)。聖書朗読は主であり、いわゆる説教は副を暗示しているのであろう。

 遡って旧約聖書を見ると、ネヘミヤ記の中に、祭司エズラがモーセの律法の書を朗読する場面がある。時代は、捕囚からの帰還というモーセの時代からはかなり後になるからであろう。レビ人が、「翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げた」(88)とある。ここにいわゆる説教の始まりをみることは許されるであろう。とすると、やはり聖書の朗読が主であり、説教は副次的なものなのだ。

 ならば聖書朗読のみでよいではないかと考えられそうだが、聖書そのものが約2千年近く前の古文書(?)であるが故に、どうしても説教が必要となるのだ。

 となると、説教者には、わかりやすく、感銘深く語ることが求められ、他方信徒は、神のことばに聞かんとする真剣さ、熱心さをもって聴くことが求められる。聖書は難しい、退屈だとし、語る者も、聴く者も、聖書以外の要素に惹かれるようなら、喜ぶのはサタンだけといわねばならない。