今週のメッセージ201/11/01)

翻訳の違い


現代において、プロテスタント教会が手に出来る代表的な邦訳聖書は、新共同訳、口語訳そして新改訳の三つが挙げられます。この三つを比べながら読んでいると、たまに「オヤ!」と思う時があります。訳によって多少の言い回しの違いが生じることは当然ですが、それ以上の違いに出くわすことがあるわけです。

先週、新約聖書の使徒言行録を読んでいたところ、1921でそのような事例に出会ったのです。以下にその三つの訳を記します。

 「このようなことがあった後、パウロは、マケドニア州とアカイア州を通りエルサレムに行こうと決心し、・・・。」(新共同訳)

 「これらの事があった後、パウロは御霊に感じて、マケドニヤ、アカヤをとおって、エルサレムへ行く決心をした」。(口語訳)

 「これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。」(新改訳)

違いとは、口語訳では「御霊に感じて」、新改訳では「御霊の示しにより」とある部分(下線部分)が新共同訳にはないのです。

原語を見ると、「御霊」と訳されている語は、直訳すると「霊」の一語です。この「霊」を“神の霊”と採るか、“人間の霊”と採るかによって生じた訳の違いというわけです。詰まり、新共同訳は“人間(パウロ)の霊”と採り、口語訳および新改訳は“神の霊”と採っているわけです。

因みに、詳訳聖書を見ると、「〔聖〕霊に導かれて決意し」となっており、“神の霊”と採っているといえます。さらに英訳(NKJV)見ると、“ in the Spiritとあり、同じく“神の霊”と解していることがわかります。