今週のメッセージ201/02/14)

主イエスの荒野の試練(2)


 「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」(新約聖書・マタイ4:5,6)

 敵対者たちが、イエスを死刑に処すべくかたちばかりの裁判にかけた後、ローマ総督ピラトのもとに連行、ピラトはイエスをガリラヤ領主ヘロデのところへ送ったことがルカ福音書に記されています。

 するとヘロデは、「彼はイエスを見ると、非常に喜んだ」(ルカ23:8a)とあり、その理由として、「イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」(同8b)と書かれています。

 ヘロデと限らず、人は「しるし(奇跡)」を求める傾向があります。確かにイエスは奇跡を行われましたが、しかしそれがイエスの働きの中心だったわけではありません。マタイ福音書12:39には、イエスご自身が、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」といわれ、続く40節ではその「ヨナのしるし」について、「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」として、十字架の死と三日目のよみがえりこそが、ご自身の中心的な働きであり、唯一のしるしといわれています。

 冒頭に記した悪魔の第2回目の誘惑は、イエスを十字架の死から逸らせるべく奇跡を行うことへと誘っています。それに対してイエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(7節)として退けておられます。神の言葉は試すことによってではなく、信じてその上に自分の全重量を託して生きることにより、結果として確認出来るものです。