今週のメッセージ201/09/18)

「歩く」ということ

 

 「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』」(新約聖書・使徒言行録3:6)

 

 上記の聖句は、使徒ペトロが、生まれながら足が不自由のため、毎日、神殿の門の側で物乞いをして暮らしていた男を、癒やして立ち上がらせるという奇跡を担ったことを伝える記述です。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」とあります。わたしは、「歩きなさい」という言葉を、「立ち上がる」ことに続くものとして、あまり気に留めることもなく読んでいました。

 しかし、カトリック信者であられる作家曽野綾子氏が、その著書の中で、歩くということは、ただ単に、一つの地点から他の地点へ移動できるという能力以上に重大な意味を持っていると述べ、人並みだということの最低の保証と記しています。さらに新約聖書の原語のギリシャ語で「歩く」を意味する「ペリパテオ―」を引き合いに出し、それは「歩き廻る」ということでもあり、「その人らしく振る舞う」という意味でもあり、何よりも「生活すること」を指しているというのです。(但し、以上は歩こうと思えば歩ける人に限ってのこと)その上で、老後のことを考え、脚を鍛える必要を勧めています。そのことを考え合わせると、冒頭の聖句の「歩きなさい」が、さらに豊かな意味を持って迫ってくるのを覚えるのです。使徒ペトロを通していやしの恵みに与ったのは40歳を過ぎた男性であったとあります(同上4:22)。聖書には書かれていませんが、以後の彼の生活は一変したに違いありません。「歩くこと」の重さをあらためて覚えます。