今週のメッセージ201/01/08)

「終わり」を見据える大切さ

 

 新年早々、「終わり」を話題にして恐縮ですが、目標や方針を定めようとするとき、「終わり」を見据えることは大切です。「終わり」を意味する英語の“End”には“目当て、ねらい、目的”の意味も併せ持っています。

 そこで聖書の中に“終わり”に関する既述を見るならば、66巻から成る聖書の最後の書『ヨハネの黙示録』の終わりのところを見ると次のように着されています。

  「死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」(20:13b〜15)

 それに続いて次の21章の初めの方には以下のごとく記されている。

  「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。最早氏はなく、最早悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(21:3b〜4)

 では、火の池に投げ込まれることを免れ、もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」といわれる新天新地に入るためにはどうしたら良いのだろうか。

 これについては、『ヨハネによる福音書』3:36にこのようにあります。「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」、と。

詰まるところ、御子イエス・キリストを信じるか否かがすべてなのです。