今週のメッセージ201/01/22)

幸いの源

 

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(新約聖書・『ルカによる福音書』1:45)

人間この世に生まれて生きる以上、誰もが幸いを求めます。それは当然のことです。問題は、それがどこにあるかということです。経済的豊かさの中にそれを追い求めていく人が多くいます。確かに生身の身体を持って生きる以上、当然かも知れません。しかし、求め始めると切りがないところがあります。人間の欲望は際限のないところがあるからです。社会的な地位や名誉の中に追求する人もいます。しかし、上には上がいるのがこの世です。あるいは家族・家庭の中に見出そうとする人もいます。しかし、病に襲われたり、最終的には死を免れることは出来ません。

そんなことを言ったら、どこにもないではないかという結論に到達するしかないということになりそうです。

しかし、目を転じて聖書の中に問うてみましょう。

冒頭の言葉は、救い主を胎に宿したマリアが、それよりも6ヵ月早く同じく命を宿したエリサベトという女性を訪れた際に交わされた言葉です。やがてエリサベトから誕生する人物は洗礼者ヨハネと呼ばれ、後から生まれる救い主を、人々が迎える準備を導くべく、それを使命として生きることになります。

イエスは、マリアが婚約中に聖霊によって身ごもり、誕生することになりましたから、人間的に考えれば、婚約破棄、ふしだらな女、その故の処刑の危機が考えられる状況でした。しかし、マリアは救い主誕生という幸いが神のみ心として実現することを信じて生きたのです。神の言葉に信頼して生きることの幸いがエリサベトの口を通していわれているのです。