今週のメッセージ201/03/05)

手引してくれる人の必要


「フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、『読んでいることがお分かりになりますか』と言った。宦官は、『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。」(新約聖書・使徒言行録8:30、31)


わが国にカトリックのキリスト教が伝えられたのが1549年。プロテスタントのそれが伝えられたのがそれから310年後の1859年。そしてこのわたしに届いたのが、それから100年後の1959年。その年はプロテスタントのそれからちょうど100年ということで記念する集会が都内の豊島公会堂や文京公会堂で行われ、わたしはそれに出席する中でキリスト教信仰に導かれたというわけです。

その年の7月の終わり頃から教会に行き始め、100年記念の集会で入信決心をしたのは忘れもしない9月21日でした。

その辺りから自分で聖書を読み始めました。新約聖書の初めに置かれている福音書から読み始めたのですが、イエス・キリストの降誕から始まりますから、キリストの伝記のように思って読んだら、誕生からすぐに30歳に飛んだり、四つの福音書のうちの最初の三つは、同じようなことが書かれていて、なぜ一つにまとめられないのかと思ったりと戸惑いを覚えました。恐らく一人で読んでいたら途中で投げ出したと思います。

そうせずに今日まで続いているのは、偏に教会に通い、そこでの聖書の話しを聞きながら読んだ御蔭と思っています。故に、聖書を読む時、「手引してくれる人」が絶対的に必要だと強く確信しています。