今週のメッセージ201/8/20)

聖書を読み始めた頃の思い出

 

「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」

(マタイ1:1、協会訳)

わたしが“ひとつ聖書なるものを読んでみよう”と思い立ったのは高校生の時でした。当時、アメリカ人の宣教師の方が毎週行っていたバイブルクラスで使われていた英語と日本語の対訳の新約聖書が、最初に触れた聖書です。冒頭の聖句は、その書き出しです。その頃通学路の途中にあった浜松市内の谷島屋という書店で自分の聖書を購入し、通学で使っていた東海道線の車中で読んだのを思い出します。

しかし、自分なりに聖書に取り組むようになったのは、高校を卒業して上京した年からです。高2、高3と同じクラスになった故小石泉君の兄に当たる小石豊師が当時牧会されていた吉祥寺福音教会(現・練馬キリスト教会)へ行くようになったその前後辺りです。

冒頭に記した聖句で始まるイエス・キリストの系図は、馴染みのない片仮名書きの名前が16節まで続くわけですから、厄介に感じた記憶が残っています。その後、新約聖書の最初の三つの福音書は同じようなものが重複しているとの印象も持ち、“なんで同じようなものが三つも”と思ったことも覚えています。

しかし、学んでいくにつれ、それら三つは“共観福音書”と呼ばれるだけあって、内容的にマタイの約3/4以上、ルカの約2/3以上が、最初に書かれたマルコの内に見出だせるけれども、それぞれ掛け替えのない書で、置かれている順序もマタイ、マルコ、ルカが当然と思うようになりなって今日に至っている次第です