今週のメッセージ201/0/11)

主を畏れることの大切さ

 

「主を畏れることは知恵の初め。」(旧約聖書・箴言1:7a)

この言葉は、旧約聖書の『箴言』と呼ばれる書に出て来る、いわばこの書の中心テーマともいうべき言葉です。

しかし、「箴言」という語そのものが、一般的にはあまり馴染みのない言葉でしょう。「箴」という字は、いわゆる“鍼灸”の鍼(はり)の意味です。昔は「鍼」は竹製だったので竹冠なのです。つまり「箴言」とは、一般的には“人生のつぼに射し込む格言”というわけです。

旧約聖書中の書としての『箴言』にあっては、神に対する信仰を前提として、“神の教えの原理を、現実の生活のつぼに的確に当てはめていく知恵の言葉”と言うことになりましょうか・・・。

少々前置きが長くなりましたが、もう一つ、旧約聖書中の「主」(新改訳聖書と呼ばれる訳の聖書においては太字となっている)とは神の名を表し、直接口にするのは恐れ多いということで、神の名を表す語が「主」という語に置き換えられているものです。

あらためて冒頭の言葉――「主を畏れることは知恵の初め。」――に戻りましょう。主を畏れ敬うことは、現実の生活の中で、鍼を的確にそのつぼに射し込む知恵だというわけです。

宗教とか信仰というと、それは個々人の自由であり、また何か特別なことのように思われがちです。しかし、もし、天地万物を造られ、かつ、われらの命の源なる神がおられ、そしてその方が最後の審判を執行されるとするならば、その方を畏れ敬い、その方の言葉によって生きることこそ知恵の基だといわねばなりません。人は、神を畏れ敬い、パンだけでなく神の言葉によって生きるべき存在なのです。(新約聖書・マタイ福音書4:4)