今週のメッセージ201/0/15)

「見る」から「聞く」への転換

 

新約聖書中の『ヨハネによる福音書』の2029bに、「見ないのに信じる人は、幸いである」とあります。これは、キリストの復活を信じられなかったトマスという弟子に対して、復活のキリストが姿を現され、そのトマスに語られた言葉です。

ところで、すでに天に召されましたが、かつて日本基督教団・東京北千住教会の牧師で、東洋英和女学院短大の講師などもされていた高木幹太という方が著された『神と人間』という書があります。

その中で氏は、「見る」と「聞く」をくらべた場合、「見る」という行為は自己中心的な態度、それに対し、「聞く」という態度は他者中心的な態度だと記しています。さらに氏は、「見る」という態度は、“自分を超えている、あるいは自分の手のとどかない、他者の存在というものを、真実に認めようとしない態度”。そして、“他者というのは、他者自身、みずから胸を開いて自分をあらわにし、語りかけてこなければ知ることができない、わたしにとって神秘な存在にほかなりませんが、「見る」態度は、このような自己を打ちあけようとする他者の語りかけに、自分を服させ、応ずることを好まないで、あくまでも一方的に、自己中心的にみずからのうちに籠ろうとすること”と記しています。そして、“謙虚に他者の存在を承認し、その語りかけに服させる、「聞く」態度にわれわれがひるがえったときに、受身的に、かなたからわれわれのうちに引きおこされる決断”、即ち、“実に「見る」から「聞く」への転換、一方的自己中心的態度から相互的他者中心的態度へのひるがえり、これが信仰ということに他ならない”と述べています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)