今週のメッセージ201/05/19)

「信じる」と「知る」について

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(新共同訳・新約聖書・ロマ1017

 

私事になるが、筆者がキリスト教入信を決心したのは19歳の時、そして二十歳で洗礼を受け、クリスチャンとしての歩みをスタートさせた。その頃、芥川龍之介、太宰治、有島武郎という三名の作家に興味を持った。それはこの三名が持っていた共通点の故であった。その共通点とは、聖書に触れた経験を持っていたこと。特に有島の場合は入信したと伝えられている。共通点のもう一つは、自殺を遂げたことである。故に、なぜ?と関心を持ったわけである。

その理由については、他人が軽々に言うことは控えねばならないと思うが、芥川には『じゆりあの吉助』という短編があり、ある意味で信仰というものに対する彼の考えが披瀝されているように思える。紙面の関係で詳細を記すことは出来ないが、主人公の吉助は、少々薄馬鹿だったために教理を間違えて信じたキリシタンであったのだが、その間違った信仰を貫いて見事な殉教の死を遂げた人物として描かれている。芥川はその作品を通して信仰なるもの所詮は“思い込み”と断じているわけである。

それに対してキリスト教信仰は“断じて然らず”といわねばならない。とかく“わかったら信じよう”というのが大方の人の姿勢である。決して闇雲に信じることを要求するわけではないが、信仰には、信じることによってわかる領域がある。その点でアウグスティヌスという人の言葉は一考に値する。彼曰く、“理解は信仰の報酬である。それ故、信じんがために理解することを求めるな。むしろ理解できるために信じよ。