今週のメッセージ201/06/23)

イエスの母マリア

「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」(新約聖書・ヨハネ福音書19:25)

 

先週の日曜日(6/16)の午後、わたしたちの教会は映画会の時を持った。上映された映画は、三浦綾子の原作『母』が映画化されたもの。

原作には付いてないが、映画には副題として“小林多喜二の母の物語”が付加されている。

筆者の場合、小林多喜二という小説家の名前よりもその作品の一つ、『蟹工船』の方が記憶にあった。多分、中学時代、国語関係の教科書の中で知ったのではないかと思う。

作品『母』において著者三浦綾子氏は、小林多喜二の母セキをイエス・キリストの母マリアと重ね合わせるかたちで描いている。冒頭に記した聖書の言葉は、イエスが十字架に磔にされた時、その傍にイエスの母マリアが立っていたと告げている。その折のマリアの胸中は察するに余りある。

イエス・キリストの母マリアは、“聖母マリア”と呼ばれたりして特別視する傾向が強い。筆者にはその特別視に抵抗を覚える思いがあった為、敢えてそれを退ける思いが以前からあった。

しかしこの度の映画では、そうした聖母的ニュアンスではなく、実在した小林多喜二の母セキと対照させてのイエスの母マリアであったので抵抗無く受けとめられた。

イエスは、マリアがヨセフと結婚する前、聖霊によって胎に宿した子である。母としてわが子であると共に神の子であるイエスの死を、贖罪死と悟るまで、どのような心の経緯を辿ったのだろうか。想像は尽きない。