今週のメッセージ2020/03/01)

キリストの十字架の死の二面性

 

 先々週からすでに二回にわたってキリストの十字架の死について記してきました。先々週(2/16)は、『キリストはなぜ十字架に?』の主題で、先週(2/23)は『受難節』の主題で、キリストが十字架に磔にされたわけや、それを記念し、キリスト教会の暦において受難節と呼ばれる期間が生まれたこと等について記しました。

 本日は、キリストの十字架の出来事の二面性について記してみましょう。

十字架の出来事が持つ一面は、律法というものを形式的、杓子定規的に捉えていたファリサイ派と呼ばれる人々と、律法を愛に基づき本質的に捉え、行動されていた主イエスとの対立です。主イエスの安息日における癒しについて、前者は律法違反と捉え、イエスに対する殺意を抱いたのに対し、主イエスは、「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(ルカ6:9)と問われ、敵対者はそれに答えられず、イエスに対する敵対心・殺意を募らせ、やがて十字架による処刑にいたったわけです。

もう一面は、それを逆手にとり、神がそれをわたしたち罪人の救いのための贖罪死とされたことです。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ3:23〜25aとある通りです。

このキリストの十字架の死を、漠然と単なる殉教死的に捉えるのでなく、わたしたち罪人への神の愛故の贖罪死と捉え、その救いの恵みに与りましょう!