今週のメッセージ2020/06/21)

「主の心弟子知らず」 マルコ10:35−45

 

 弟子たちはイエス様の身近に仕え、いつもみ言葉を聞いていたけれども、主の御心を察することができずにいました。

 ヤコブとヨハネの二人は、自分たちの利益と言いましょうか、立身出世を目指す意識に溢れていたようです。彼らは自分たちの願いを正直に表明しただけかもしれません。けれども、他の弟子たちを出し抜いて主に取り入ろうとした欲望が仲間の反感を買うことになりました。

 「願いをかなえていただきたい」と申し出た二人は、直前の33-34節で語られた主のご受難の教えがまるで耳に入いらなかったかのようです。二人にとって、主が殺されるという教えは415で語られた「道端に落ちた種」のように奪われていたのでしょうか。二人はまるで主を便利な奴隷として使おうとしているようにも見えます。

 確かに主は1124で祈りの答えを約束されました。しかし、私たちはその前に何を願うべきかを知らねばなければなりません。一方で、この直後に登場するバルティマイは主に願うべきものを知っておりました。

 私たちを愛してくださった主は、私たちのために卑しくなられたお方です。それほどまでに主に愛されている私たちが、自分を高めるのは虚しいことであり、それはまさに虚栄です。

 私たちが主の近くにいたいと望むのは正しいことですし、主のごとくなりたいと望むものも良いことです。主はご自分の思いではなく、父なる神様の御心をお求めになりましたが、私たちは、主のこの点を倣い求めているでしょうか?

 933-34で「仕える者となれと語られた主のみ言葉は、弟子たちの心に根付かず、欲望はまだくすぶっておりました。

 主が模範を示されたように、真の偉大さとは仕えることにあります。主が歩まれたように「しもべとなることに真の自由があるのです。ガラテヤ513私たちは仕えることを望んでいるでしょうか?

 主の御心を知り、御心に従って、主にお仕えする者とならせて頂きましょう。