今週のメッセージ(2022/2/13)

「僕イエスは神の御子」使徒 3:11-26

 

 ペンテコステの日に最初に語られた説教に続いて記されたペトロの2度目の説教は生まれつき足の不自由な男のいやしに端を発したものでした。神殿の境内に入る門の前で物乞いをしていた男のことは、参拝に来たことのある誰もが知っていたはずです。その男が喜びにあふれて歩き回り、踊りながら神を賛美し、ペトロとヨハネに付きまとっていることに民衆が非常に驚いたのは無理もありません。

 ペトロは、自分の力や信心によって彼を歩かせたのではないと最初に断言しています。では何なのか。彼はここでイスラエルの民が犯した罪を指摘します。それは指導者と同様の無知のゆえの罪であり、神のメシアであるイエスを十字架で殺してしまったことでした。しかし、神はイエスを復活させてくださり、そのイエスを信じる信仰が彼を完全にいやしてくださったのだと語ります。

 さて、13節でペトロはイエスのことを「僕」と呼んでいます。「僕」とは奴隷のことです。イエスは神の奴隷なのでしょうか?使徒 9:20 にあるように、復活のキリストに出会ったパウロは「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えるようになりました。新約聖書が記されたギリシア語やヘブライ語では「子」を意味する言葉が幾つかあります。ペトロが語り「僕」と訳された言葉も従来「子」と訳されてきたものです。著者が僕と子の両方の意味のある言葉で主イエスのことを記したのは、神である主イエスが人間となられて、私たちの罪を背負い死なれ、復活されたという福音の重要な土台に調和しています。