今週のメッセージ(11/15)

 

七五三の祝いに思うこと

 

 今日11月15日はいわゆる"七五三の祝い"の日です。先週の日曜日あたりから宮詣をした帰りと見受けられる親子連れを見かけます。親が、わが子の健やかな成長を願うのは当然のこと、また子どもにしても盛装してお祝いしてもらった体験は、慈しんで育てられた思い出のひとこまとして記憶に残ることでしょう。

 七五三はお宮で、結婚式は教会で、葬式はお寺で、とは日本人の宗教的無節操の実例としてしばしば話題にされます。確かにこれら三つは元来は宗教と結びついていたものでした。しかしそれがいつしか宗教的要素が希薄になり、単なるセレモニー、習俗と化してしまったといえるでしょう。

 本来、宗教というものはひとつの手段や手立てとして利用されるといったものではありません。宗教という言葉そのものが示唆しているように、それはすべての事柄の「教(おしえ)の宗(もと)」であるべきものなのです。ところがいつしか習俗化し、祝い、儀式の手立てとして利用されるに過ぎないものとなりかしたというわけです。そこには宗教というものの根源が関係しているように思います。即ち、そこにおいて拝まれている神は、人間を造った神なのか、人間が作った神なのか、ということです。

 "キリスト教はいわゆる宗教ではない、神より人への啓示である。宗教は人が神を求むるものであるが、キリスト教は神が人を求むるものである。"とは、世界に知られる日本のクリスチャン内村鑑三のことばです。

 

「神は御自分にかたどって人を創造された。」(創世記1:27)