今週のメッセージ(1/24)

 

聖書の二つの性格

 

  早いもので1月ももう下旬となりました。新年を迎えて新たに聖書を読み始めた方もおいでかと思います。

 聖書は二つの性格を持っている書です。一つは福音的性格、もう一つは律法的性格です。この二つが両々相俟って人を救いへと導き、さらに神のかたちにかたどって造られた者にふさわしく整えていくのです。

 では、両々相俟ってとは具体的にどういうことなのでしょうか。

 新約聖書の中のガラテヤ人への手紙の中に、聖書の律法の持っている役割が端的に示されています。それは、「このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となった」(3:24)ということです。律法の光に照らされる時、わたしたちは自らの罪深さに気づき、救いの必要を覚えるのです。

 福音的性格も同じガラテヤ人への手紙の2:16に記されています。それは、「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされる」ということ、すなわち、救いの必要を覚えた者をキリストを信じる信仰へと導き、救いへといたらせる役割です。

 かくして人は聖書を通じて救いにいたるのです。律法だけに終始しますと人は絶望の淵に追い込まれます。太宰治という作家も聖書を律法的にのみ捕らえてしまったようなふしがあります。他方、福音的要素にのみ安住しますと、成長に乏しく甘ったれたクリスチャンとなってしまいます。

また、すでに救いを得た者には律法は不要かというとそうではありません。律法は、神が人に望んであられる人のあり方を教えてくれるのです。