今週のメッセージ(2/21)

 

「老人力」の真の源泉

 

 昨年度の流行語大賞に入賞した言葉の中に「老人力」があります。これを流行らせたのは赤瀬川原平、生みの親は彼とその仲間達とのことです。

 ところで、「老人力」とはそもそもいかなるものなのか。赤瀬川氏によると「物忘れ、繰り言、溜息など、従来、ぼけ、ヨイヨイ、耄碌として忌避されてきた現象に潜むとされる未知の力」と定義されています。そして、そのような老化現象が現れてくることを「老人力がついてきた」というとのことです。

 とかくわたし達は「歳を取る」ということにマイナスの評価を与えがちです。そうした中でこの言葉また表現は、そのことを何となく面白がり、ユーモアのセンスで味付けしているところに味噌があるのだと思います。

 さて、では「老人力がついた」その極みはと考えるならば、それは「死」です。しかしそこに至っては最早、面白がったり、ユーモアのセンスで味付けといった領域を超えてしまっていると言わざるを得ないでしょう。しかし、ひとりだけ、この「死」というものを超越される方がいます。それは「死」をも「眠り」に変えてしまわれる救主イエス・キリストです。下記の聖句は主イエスが、一人の少女が死に、その死を悼み悲しんでいる人々に向かって言われていることばです。そしてそのあと、主イエスはその少女を甦らせられたのです。この主イエスを信じて生きる中に老人力の真の源泉があるのではないかと思います。

 「イエスは言われた、『泣くな、娘は死んだのではない。眠っているだけである』」。  (新約聖書・ルカ福音書8:52b)