今週のメッセージ(3/14)

 

初めと終わりから今を見るキリストの教え

 

 聖書の中の主イエスの説話は、しばしば"オヤ"と思うようなちょっと意外な主イエスの反応をきっかけに始まることがあります。それは主イエスが、事柄の「初め」(始源あるいは根源)や「終わり」(究極)を見据えて語られることによるようです。この事柄の始源や究極を見据えながら今当面している問題を見ることはとても大切です。

 例えば旅をしている時、現在位置がルートに乗っているか否か、仮に外れているとしたらどの程度かをチェックするためには、自分がどこから出発し、どこへ行こうとしているか、すなわち出発点および目的地との関わりにおいて見なければなりません。自分がどこを出て、どこへ行こうとしているのかがはっきりしなければ、自分が今いる位置も定かでなく、ますます迷うことになります。そのことは人生の歩みにもあてはまることです。

 ルカ福音書12章に、主イエスが遺産分配のトラブルの調停を頼まれたのに対し、誰がわたしを裁判官や調停人に任命したのかとそれを拒否される記事があります。当時、宗教指導者がそうした役割も担っていた背景を考えると意外な感じがします。しかし主は、その根源にある「貪欲」の問題を取り上げ、それがどんな結末に行き着くか、またそうした結末から免れるためにはどうしたらよいか、を語り始められるのです。こうした教えは、神として始源と究極を知っておられ、かつそれを支配される主のみが語り得る事柄なのです。聖書はこうした教えに満ちています。

 

 あなたのみ言葉は、わが足のともしび、わが道の光です。」(詩119:105)