今週のメッセージ(6/20)

 

善悪の基準はどこから来るか

 

 もう一ヶ月以上も前になるが、朝日新聞の『ひととき』というコラムに茨城県つくば市に住む20歳の学生さんの投稿記事が載っていた。

 投稿者は未婚の女性なのだが交際している男性がいて、詳しい事情はもちろん伏せられていたが、とにかく婦人科特有の診察台に上がらなければならないことになってしまった。

 あとで母親に別に異常がなかったことを告げると大変喜んでくれた。しかしその診察の時、いかに怖かったかを話そうとすると、母親は、悪いけど同情してあげられない。未婚で男女の関係がない子なら、その恐怖や恥ずかしさを思って心配してあげられるけど、あなたはそうじゃない。それは当然の報い、といった意味のことを言われて投稿者は深く傷ついたというのである。また、親は一体どこまで自分の善悪の基準を子供に押し付けるのだろうかとも訴えていた。

 倫理観、道徳観における世代間のギャップを現している一つの典型的なケースといえる。

 ところで、倫理道徳における善悪の基準はどこからやってくるものなのだろうか。通常、法律が善悪の基準のように考えられている向きがあるが、それは違う。法律は人間社会の約束事。従がって、国が変われば異なることもあるし、時代が変われば変わることもある。しかし善悪の基準は時代や国家の違いを超えて共通なものなのだ。そしてそれは神、一般的な言い方をすれば宗教、から来るものなのだ。

 「預言がなければ民はわがままにふるまう。」(箴言29:18)