カオスの縁  98/10/5

 カウフマンがもっとも知りたいと思ったのは、ヒトの細胞分化の謎だった。すなわち、ヒトのゲノムに 含まれる約10万の遺伝子群の相互作用から、どのようにして身体を構成する254種類の異なる細胞が できあがるのかという問題だ。
 しかし、十万では手がつけられない、そこで、百の要素から始めることにした。要素間の結合も扱いやすい ように2つずつに絞った。あとはある状態に規則を適用し、順次この操作を繰り返していって状態の変化を 見るだけでよい。セルオートマトンと同じである。

 コンピュータによるシミュレーションの結果は予想外でもあり、予想以上のものでもあった。 わずか十数回の規則の適用の後に、数個の安定状態を出現させたのだ。意を強くしたカウフマンは規則群や 結合の個数を変えながらシミュレーションを続けた。
 その結果判ったことは、まず結合が一つでは何も起こらず、4つ以上だと不安定でデタラメになること。 しかし、2つの場合には少数の安定状態が出現することだった。第2に安定状態と要素の数との間には、隠れた 規則性があるようにカウフマンには思われた。安定状態の数は要素の数の平方根になる、と彼は予測した。
  (ここでヒトにたとえれば、要素は遺伝子に、安定状態は分化した細胞に当たる。ヒトのゲノム、約十万の 平方根は約360、これはヒトの細胞の種類の数254に極めて近い。)

 「カオスの縁 edge of chaos」と呼ばれる現象を、カウフマンが自分のシミュレーション・モデルの中に それとはっきり自覚するのは1985年のことだ。

 ちょうどその頃、パッカードと並んでカオスの縁へ向かっていたのが、クリストファー・ラングトンである。 セルオートマトンに関する独自の研究を進めていた彼は、ある日ウオォルフラムの論文を目にして愕然とした。 ラングトンの反応は早かった。かれはさっそく、ウォルフラムの4つのクラスの間に隠された内的関係の 探索を開始する。そして試行錯誤の末に「λ(ラムダ)・パラメータ」と名付けた新しい「ものさし」を導入した。

 λ(ラムダ)パラメータは状態の変化を生む個々の規則表に関する、ある確率の値をもって定義され、 256個の規則表はこの確率によって0から1の間に配置された。確率の取り方にもよるが、一例をあげれば、 状態の変化が生じない「クラス1」はλの値が0の近傍に集中する。一見ランダムに見える変化を生成する 「クラス3」は、λの値が0.5の前後に位置する。「クラス2」は途中から無変化になるので「クラス1」 に近い位置、すなわちλの値が0に近い小さな値を取るだろう。
 問題はウォルフラムが「クラス4」っと読んだ、もっとも複雑な状態変化をもたらす規則群の位置づけである。 ラングトンは数値実験を重ねた結果「クラス4」の規則群が「クラス2」と「クラス3」との間のきわめて 狭い数値の範囲内に収まることを見出した。すなわちλの値が0.273の近傍に集中していたのである。
 λパラメータを横軸にとり、情報理論で定義された「複雑さ」を縦軸に取ってみると、規則群の配列が、 λの値が0.273のところでピークをとるみごとな曲線を描いた。
 つまり、λ=0.273を境にして安定状態からカオス状態への急激な変化が起こっているということだ。
 それはあたかも氷が水になり、水が水蒸気に変わる相転移の現象に似ている、とラングトンは考えた。そして、 相転移が温度というオーダーパラメータのある臨界値を境に起こるのと同じように、0.273というλの 値は、規則群の空間における相転移を引き起こす臨界値の役目を担っていることを見出した。

 複雑適応系の生息する豊饒の地「カオスの縁」がここに姿を現したのだ。