箱のなかの少女

SND93

 

着任したばかりの葛城ミサト作戦部長が、やっとのことでリツコの部屋を見つけたときには、時計の針がもう午後八時をまわっていた。早口に本部通路の案内表示へ不満をもらすミサトに、リツコは 「テロ対策に入り組んだ構造になっているのよ」 と、説明し、2ヶ月前に研修に来たばかりではないかと言った。ところがミサトは、ドイツの宿舎を引き払うときにお気に入りのイヤリングがどうとかの、なにやら訳のわからないことを言って、 「確かにバックへ入れたはずだから、きっと量子力学的に消えたのよ」 と、結論づけた。 「スーツのポケットは?」 と、リツコが旧友のトイレで化粧を直すときの習慣を指摘すると、ミサトはあわてて調べ、笑って誤魔化した。そして二人は部屋を出た。

それから二十分後、二人は酒場でカクテルグラスを傾けながら、大学時代のクラスメイト独特の、おそらく彼女たちでしか通用しないと思われる口調で語り合っていた。二人には単なる友人以上の絆があった。どちらも著名な科学者の娘で、また親に対し複雑な感情を抱いていた。リツコの母は家庭を顧みずに人工知能の研究にあけくれ、投身自殺をした。マギ・システムの基礎理論によって神格化された母の影は常につきまとい、偉大な科学者の娘としか見られないことへリツコは苛立ち、心がささくれ立っていた。ミサトも心に傷を持っていた。父の葛城博士もまた、家庭を顧みず研究に没頭し、寂しかった母は父と離婚した。しかし憎んでいた父親はミサトを逃がし、南極で閃光のなかに消える。ミサトは父のことを知ろうとしなかった後悔と、すでに父はこの世にいない事実に失語症となり、回復した今も心の空虚を明るく振る舞うことで覆い隠している。

 「違うわ、あれは彼女が二股かけてたのよ」 リツコは頬杖をつき、冷えたグラスを握りしめて酔いをさます。鋭利な美貌も、ほんのりと赤らんでいた。

 「元の彼氏にストーカーされて悩んでたって聞いてたけどな」 と、ミサトは言い、サクランボを口のなかに入れる。

 「違う違う」 リツコは小さくあくびをして言った 「わたし、彼女が彼氏と別れ話のケンカしてるの聞いちゃったもの。――ミサト、まだ飲むの?」

 「何いってんのよ。まだまだこれから、これから」 ミサトは笑いながら、手をぱたぱたと振る。

 「呆れた。あなたにはアルコールなんて水みたいなものね」 リツコは友人が八杯目に口をつけるのを見て、熱くなった吐息をもらす。「タバコある?」

 「あたし、吸わないって。それよりあんたも、もう一杯付き合いなさいよ」

 「そうだったかしら?まあいいわ、ところでなに話してたっけ?」

 「ヒロコのこと」 ミサトはグラスの氷をかみ砕く。

 「思い出した。彼女、その元彼と結婚したわよ。あなた、真壁くん覚えてる?」

 「うん、小柄で目立たない子だったわね。てんでイケてない」

 「イケてないどころじゃないわよ。織田裕二をくずした感じの、まるっきりお猿」

ミサトはけらけらと笑って 「傑作!」 と、言いながらまたグラスを空ける。それからグラスをつまんで 「コレ、おかわり二つ」 と、リツコの分も注文した。

 「わたしはその一杯でおしまいよ」 リツコは組んだ手の上に顎をのせる。「ねえミサト、加持くんとは相変わらずなの?」

ミサトはゴホゴホと咳きこみ、リツコを睨んだ 「どうしてアイツが出てくるのよ!加持は過去の男、もう忘れたわよ」

 「そう?じゃあわたしが貰っちゃおうかしら」

 「か、勝手にすればいいじゃない」 ぷいと顔をそらして、頬杖をつく。しばらくして、ミサトは向き直って訊いた 「そういうリツコはどうなのよ。誰かいい人いるの?」

 「さあ、どうかしら」

 「あんたってほんと、自分の話はしないよね」

 「だって、つまらないもの」 リツコは、氷がとけて薄くなったカクテルをぐいと飲み干す。

 「おお!調子出てきたじゃん。ささ、どんどんいこ、どんどん」 ミサトは調子はずれの声で笑いながら、手を叩いて喜ぶ。

 「飲んでりゃ幸せなのねミサトは」 リツコもつられて笑った。ヒールを脱ぎ捨て、ストッキングごしのヒンヤリとした金属の足置きが心地よい。「あら?そのネックレス、どこで買ったの?」

 「なに言ってるの、前からつけてるじゃない。父の形見よ」 ミサトは十字架をつまんで見せた。

 「ううん」 リツコはこめかみを揉む 「そうだったかしら?」

 「それ、二度目よ」

 「――わたしの母の形見はマギかな」 

 「あんた、よくやってるわよ」 ミサトは親友の背中をポンと叩く。耳元で小さなキャッツアイをはめ込んだイヤリングが揺れた。

 「プレゼントしたやつね」

 「三年生のときの誕生日にね」

 「あなた落ち込んでたから、結構無理したのよ」

 「たはは、そりゃ儲けたわ」

 「もう、しかたのない人ね」 リツコはテーブルへ投げ出した腕に頭をのせ、ささやいた 「シュレディンガーの猫みたい」

 「あたしが?」

 「わたしが」 リツコはまぶたを閉じて答える。

 「うーん。それってどういうこと?」 ミサトは首をかしげて訊いた。

けれど、リツコは目を開けようとはしなかった。

 

 

 

 


用語解説

「シュレディンガーの猫」
電子は非常に軽い為、光に当たるだけで軌道を変えてしまう。
そのため電子の運動を観測することはできず、その位置は確率の分布で表される。
これをシュレディンガーという人が次のようなたとえ話にしました。
箱の中に猫と毒薬を入れます。毒薬はガラス瓶に入っていて、瓶はある確率で割れて
しまいます。
このとき、猫は生きていると同時に死んでいるというおかしな状態となってしまう。
当然、箱をあければ生きているのか死んでいるのかは確定します。


琥珀のコメント

ほうっ・・・・・・「シュレディンガ―の猫」聞いたことはあるのですが、

イマイチなじみが薄い・・・←(馬鹿)

文学的です!

しかし、たぶん私のおっぺけぺー(?)な頭では、きっと半分も理解できていないに違いない(汗)

ああ、自分の脳みそのレベルアップをはかりたいわ!!


モドル