夜半にたたき起こされた鍛冶職人の老人は、何事かと思いつつもカサンドラ伯爵の屋敷に姿を現した。すでに負傷した兵士達はみな手当が済んで兵舎に戻っている。屋敷は夜の沈黙を取り戻していた。

 

 ドアを叩いた老人を、眠そうな目つきのサクラーが案内する。そしてクラインの私室に招かれた。

 

「実は、剣の手入れについて伺いたいと思いまして」

 

 老人は差し出された剣を取ると、自然とその造りの観察を始めていた。

 

「実に見事な造りでございますな…抜いても宜しいですか?」

 

「どうぞ」

 

 クラインの了解を得て、ゆっくりと剣を抜いた。のたれた白い刃紋が妖しいまでの鋭さを見せている。老鍛冶はうなった。

 

「いかがですか?」

 

「素晴らしい。どこの誰かは存じませんがまず最高の職人でございますね…ずいぶんと血脂にまみれているようですが…」

 

「はい。ですから手入れをしたいと思いまして…。方法をお教えて下さい」

 

 老人はクラインの真剣な表情を見て、血脂の理由を聞くのを止めた。「そうですか。では…」と断って、持ってきていた荷物を引き寄せる。

 

 しばらく刀身を観察して構造を確かめると、ペンチを取り出して柄に刺さっている目釘を抜いた。すると柄から刀身が抜ける。ナカゴが姿を現した。

 

 サクラーに水を用意してもらうと、何か泥のような物を取り出した。それを水で溶いて刀身に塗り始める。

 

「これで、血脂を落とします」

 

「なんですか?」

 

「クレミ粉です」

 

「まあ」

 

 クレミ粉とはどこの家庭でもあるいわゆる石鹸である。西国のクレミ湖畔で取れる泥で、かなり強力に油脂を落とす作用がある。老鍛冶は丁寧に刀身にクレミの泥を塗っては拭き取ると言う作業を繰り返した。そして何度か水ですすぐと丁寧にふき、徹底的に水分を取った。そして砥石粉をまぶして、刀身を拭うと最後にロクナ草の油を塗布する。

 

「これほど人を斬りながら刃こぼれが一つもないとは素晴らしい…研ぐ必要は全くございません。しばらくは水気が残っていますから錆びさせない為に手入れは毎日して下さい」

 

 老鍛冶の言葉にクラインは頷いた。

 

 それは刃長二尺四寸。箱乱れと呼ばれる独特の刃紋を持った『刀』である。

 

 漢字の読めない老鍛冶には只の印としか思えなかったが、ナカゴには漢字で『羅刹刀村正』と刻んであった。

 

 

 

 

* *

 

 

 

 

 飛行船。

 

 ここでは一般的に船と呼ばれている。

 

 一隻の船が王都を出航した。それはとある商人が保有する交易商船であり、主にカーレと王都の間を往復している。その船倉にはずっしりと宝石や貴金属、そして外国の珍しい品物が積み込まれていた。

 

 グロッグ号である。

 

 その外観は巨大な風船に海を行く船のような形状をした船体が下がっていて、左右には数十本の羽を持つプロペラが張り出し、推進力を産み出している。

 

 甲板に立って見る光景はまるで雲海を行く船であり、天蓋となって空を覆っている巨大な風船がなければ、我々の知る木造の帆船とそれほどの違いを感じないであろう。

 

「船長!雲海に出ました。天候は快晴、視界良好、船影周囲になし。風向きは西北西微風!」

 

「ようし、速度を巡航に!針路はカーレ」

 

 船長の命令が発せられると、副長が復唱し舳先(へさき)は南南西に向けられる。ほぼ同時に甲板下からくぐもって聞こえるドン、ドンと言う木槌の音がその調子を上げ、それに伴ってプロペラの回転速度が速くなり、船の速度が上がった。

 

 その音源は船の甲板下にあった。

 

 禿頭の男が両手にそれぞれ木槌を持って丸太を叩いている。この音である。

 その男を中心に左右に三〇人ずつ、六〇人の男が並んでいた。木槌の音に合わせて、それぞれが巨大な櫂を渾身の力を込めて引く。

 

「もっと力を出せ!」

 

 漕手頭が、鞭をふった。

 

 ヒュンと言う音につづいて痛ましい音が響く。奴隷達は鞭を受けて呻いた。

 

 鞭を受けた男達の無気力な視線が漕役頭に向けられる。しかし男達は、力一杯に櫂を引いた。櫂がギリギリと木材のねじれるような音を上げ、鞭を持った漕手頭は、それを見て満足そうに頷く。

 

 漕手達の引く櫂は、その力を物理的に動輪に伝え、その動輪がプロペラを回すという仕組みである。ほとんどの船がこうして人力をもってその動力としている。 

 

 漕手の男達は、白、黒、褐色と様々な肌の色をしていた。上半身は裸身で、その肌は何ヶ月も風呂に入っていないかのように不潔。髪は延びるに任せている。そして、その足首には奴隷の証である鉄輪と野太い足枷がつけられ、鎖で繋がれていた。

 

 その列に柊がいる。だがかつての姿は見る影もない。

 

 細いしなやかな筋肉がその傷だらけの肌の下で蠢くのが見える。全身を覆う傷は、それこそ背中から腰、腹、脚、腕までと満遍なく、それをつけた人間の几帳面なほどが伺える。

 

 漕役奴隷となって既に半年。

 

 カーレで過酷な取り調べを受けた彼は結局何一つ語ることは無かった。何も知らないのだから当然である。だが、カーレの治安責任者エウロパは彼を無実として放免したりせず、裁判も無しに有罪を宣告して奴隷市場に送ったのである。

 

 その後の柊の生活は過酷であった。

 

 一日のほとんどを櫂を引くだけで終わった。時として寝る時間すらない。ほんのわずかな休息の時間を貪るようにして眠り、投げ与えるようにして配られるわずかな食料をほとんど丸飲み同然に腹に収める。乏しい食事と水、まるで減量中のボクサーのようであった。

 

 数日の航海の後、柊の乗ったグロッグ号は無事にカーレへと到着した。

 

 次第に高度を下げていく様子が薄暗い漕手室にあってもわかる。すっかりと手になじんだ櫂をゆっくりと引きながら、小さな採光窓から目に入る風景を柊は眺めていた。

 

 カーレ。

 

 既に何度か見た光景である。ここから彼の漕役奴隷としての生活が始まった。柊にとって、そして多くの漕役奴隷にとって、この街への思いは暗くて深い。

 

「微速!」

 

 漕役頭の号令と共に、木槌のリズムがゆっくりとなる。

 

「止め!」

 

 今まで動かしていた櫂を今度は必死で抱え上げて止める。

 

 眼下にカーレの港床が広がって、鈍い衝撃で着床したことが判った。頭の上の甲板では乗員達の忙しく走り回る足音が響き係留作業がなされている。

 

 入港が終わったのである。

 

「よし、休んでいいぞ!」

 

 漕手頭の声に奴隷達は何も言わずに座った。

 

 櫂に抱きつくようにして眠る。

 

 彼らも年中櫂を漕いでいるわけではない。航海の途中でも交代でいくらかは休ませてもらえる。もちろんヒューマニズムなどからではない。奴隷と言えども、その購入には元手がかかっており、出来るだけ長持ちさせたいと思っているに過ぎないのだ。つまり機械を手入れするのと同じ感覚である。

 

 体を伸ばす場所などどこにもない。座ったまま、時には立ったまま眠る。この過酷な環境で彼らが生きていられるかどうかはただ二つのことにかかっている。どんな時でもどんな場所でも眠れるか、そしてどんなものでも食べられるかである。それが出来ない奴隷は死ぬ。それだけであった。

 

 目を閉じると瞬く間に眠りに落ちる。

 

 慣れというのは恐ろしい。柊はどんな場所、どんな時にでも眠ることが出来た。時には櫂を引きながらも眠ることが出来た。そして必要な時にはバッと目を醒ますことが出来るのである。今は、熟睡をするべき時であった。疲れた身体を徹底的に休ませようと柊は睡眠の快楽を貪った。

 

 柊が目を覚ましたのは、周囲の気配が変わった瞬間である。天井、つまり甲板の乗員達の足音が変わったのだ。

 

 突然天井から水がまき散らされた。

 

 柊は素早く身を壁際に寄せて飛沫をかわす。

 

「おい!折角洗ってやろうと思ったのによけるなよ!」

 

 乗員達の嘲笑に、奴隷達は無気力な表情の顔を上げた。

 

「慈悲深いどこかのお嬢様がお前達に身体を洗う水と、特別に食い物をお与え下さる。ありがたく受け取れ!」

 

 次から次へバケツで水がそそぎ込まれた。

 

 柊は早速、水の下に身体を曝して汚れを落とした。それまで座り込んでいた奴隷達も水を浴びる。髪と肌から、汗と垢をこねたような汚れを落としてさっぱりとする。不衛生な環境のせいか半年たっても化膿したままで未だに治らない傷もあった。それが沁みる。

 

 水の後に投げ込まれたのは大きな生肉の塊だった。

 

「まるで犬だ」

 

 群がるようにして肉にかぶりつく奴隷達を見て船員の一人が言った。だが柊は、気にも留めなかった。生の肉は各種ビタミン類が手つかずのまま残っている、野生の狼のような気分で肉の固まりを奪い合い、噛みちぎり、味わう間もなく飲み下す。脂身は良質のエネルギー源となる。

 

 満腹と言う感覚は久しぶりであった。

 

 柊は再び櫂にしがみつくようにして眠った。濡れた髪がなんとも心地良かった。

 

「よし、お前達!休むだけ休み、喰うだけ喰ったのなら働け!櫂立て!」

 

 眠ると時間などあっと言う間に過ぎてしまう。いったいどれほどの時間が流れたろうか。号令と鞭の音に奴隷達は機械的に身体を起こす。櫂を両手で握り足を踏ん張った。

 

 採光窓を見るとまだ外は薄暗い。

 

「夕方か?それとも朝方かな?」

 誰かが言った。だがどっちでも同じだった。

 

 疲れたら眠るという生活である。とっくに時間とか暦の感覚は失っている。

 

 床が突然せり上がるような感覚がする。船が離床したのである。

 

 ふわふわとした感覚に周囲を見渡していると漕手頭の罵声が轟いた。

 

「両舷!発進速度!」

 

 木槌の音が高らかと鳴った。

 

 柊は櫂を身体で引いた。

 

 体力を消耗しない為にもなるべく力を使わない工夫をしている。

 

 船を漕ぐ動作はかつて徹底的に練習した武術の型の一つに非常に似ていた。櫂を引く。するとメリメリと言う木材のねじれるような音を上げてしなう。

 

 次第に調子を上げていく木槌のリズムにのって、柊を初めとした漕役奴隷達は櫂を引く。船は推力を得て速度をあげる。カーレの港が次第に小さくなり、樹海の地平線に朝日が見えた。

 

 

 

 

* *

 

 

 

 

「お嬢様…雲海はただいま西北西の季節風が吹いております。王都への到着は四日後の予定となります」

 

「わかりました」

 

 船長の報告に頷いたのはクラインであった。

 

 甲板に立って雲海から姿を現した朝日を眺める。

 

 吹き込む冷たい風に衣装の裾と長い髪がたなびいていた。手には朱色の布に包まれた棒状の物をかかえている。あれ以来肌身はなさず持ち歩くようになった『羅刹刀村正』だ。

 

「失礼ですが、お忍びの旅ですか?」

 

「いいえ。どうしてですか?」

 

「お家にも立派な船があると伺っております。なのに、このような船に乗られると言うのはどうしてでしょう?」

 

「…深い意味はありません。家の船が丁度出払っておりまして。そうしたら、都合が良いことにこの船が王都に向かわれるとうかがいましたので…」

 

「そうですか。いや、実はこの船は客船でもないのに、高貴な身分の方々がお忍びに利用されることが多いのですよ。王都から出る船にしては中型で足が速いですからね。それに船団も組まずに単独行動をしますから、お忍びには最適です」

 

「どんな方が、利用されるのですか?」

 

「これは内緒ですが、半年ほど前にはモーム王女がご利用下さいました」

 

「まあ、そうでしたか。殿下がこの船に」

 

「はい。気持ちの良い方でした」

 

「実は、この度の王都行きは、モーム王女のお誕生日のお祝いなのです。あの娘(こ)ったら、わたくしに必ず来いと言って…」

 

 船長は、ほっと目を丸くした。クラインがモームの事をあの娘(こ)と呼んだことにそれほどの関係かとびっくりしたのである。

 

「そうですか。殿下はおいくつになられるのですか?」

 

「わたくしと同じで一九才になります」

 

「へえ、そうでしたか。てっきり…」

 

「てっきり、なんですか?」

 

 クラインは船長の表情を訝しげに見た。船長はうろたえつつも答える。

 

「いや、実は一五才か一六才の子供かなって思っていたんです。まさか一九才とは思わなかったなあ。ホント見た感じが幼くて…いや、悪い意味ではないですよ…」

 

「まあ!では、どんな意味なのですか?でも、そう誤解されても仕方ないですわね。あの娘ったら、時々男の子に間違われることもありますのよ。あのお転婆ぶりですもの、仕方ありませんわ」

 

 船長はクラインがそれほど強くたしなめようとしなかったので気楽になれた。一九歳と言えば妙齢である。最も華やかなりし頃合いの女性を子供呼ばわりしては相当の失礼であろう。しかし、男の子と間違われることもあるのなら、歳を間違えた程度では、それほど失礼な事ではないなと思える。

 

 クラインと船長はお互いの顔を見合わせて何とはなしに笑った。

 

「何かご用がありましたらご遠慮なくお申し付け下さい。では王都までの船旅をごゆっくりお楽しみ下さい」

 

 船長は上機嫌に頭を下げた。

 

 

 

 

* *

 

 

 

 

 港でクラインがグロッグ号に乗り込むのを見送ったエウロパは、配下の兵士に先に戻るように命じると、単身、下層の街へと降りて行った。

 

 まだ、燈火の発達していないこの世界では人は朝、陽が出ると活動を初め、陽が落ちると休む。薄明るい空の下で、人々の一日が早々と始まろうとしていた。

 

「おはよう隊長さん」

 

 商店の女主人に挨拶を返しながらも先を急ぐ。山積みにされた商品の間を抜け行き交う人々を避けた。

 

 突然路地から延びてきた手に腕を捕まれるとそのまま暗がりへと引き込まれた。

 

 素早く剣を抜こうと構えたが、相手の姿を確認して動きを止める。

 

「なんだ、お前か…」

 

 目前に立っていたのは少女であった。一四才くらいで、エウロパに対してにこりともせず冷たい目で見上げているだけだった。

 

 何も言わず、エウロパに背を向けると路地を進み始めた。

 

 それが、ついて来いと言う意味だと知っていたからエウロパは肩の力を抜いて後に続いた。カーレの路地は暗く湿気に満ちている。ガラクタやゴミが散乱して、まっすぐに歩くことも出来ない。そういった物をよけながら、少女は進んだ。

 

 エウロパが案内されたのはとある建物の一室だった。陽の光も射し込まず、じめじめとしている。

 

 そこで一人の男が待っていた。闇がまるで人の姿をとったような肌をしている。

 

 エウロパはその男の通り名しか知らない。

 

「なんだ黒豹か…びっくりさせやがって。直々に来るとは聞いてなかったぜ」

 

 黒豹は、エウロパの言葉を聞くと鼻をこすって座った。少女はエウロパの背後に座る。

 

「約束はどうした?クラインが行ってしまったぞ」

 

「ちょっと待てよ。お前の方こそ半年前の約束をどうしてくれるんだ?約束した金をまだ貰ってないんだぜ!」

 

「半年前?ああ、そんな約束もあったな、だがお前は失敗した。俺は大事な戦友を亡くすはめになった」

 

「あれは俺のせいじゃねえぞ、邪魔したのはヒイラギとかって言うお節介野郎で俺は悪くないんだ。とにかく約束どおり金は払ってもらうぜ」

 

 黒豹は指を立てて見せた。

 

「そうか。ならばお前との取引話はなしだ、いくぞ」

 

 黒豹は腰を上げた。少女も呼応して腰を上げる。

 

「ちょっと待てよ。な、聞けって…あの件じゃ俺だって割をくってるんだ。伯爵の目が厳しくなっちまってな…」

 

「なんだ、信頼されて全てを任されているんじゃなかったのか?」

 

「みんなあの野郎のせいさ。…お前の仲間が失敗したろう?それをただの野盗の仕業ってことにする為に嘘を少しばかりついたんだよ。ところがひょんなことからそれがばれちまって今まで培ってきた信用が全部パアさ。痛くもない腹までさぐられてこっちは大迷惑さ」

 

「ふん。解任されなかっただけでも儲け物だな」

 

「みんなお前達のせいだろうが」

 

 突然、黒豹が少女に目配せをした。少女は音もなく立ち上がると部屋から出て行く。

 

「どうした?」

 

「お前、紐がついてるぞ?」

 

 エウロパはなんのことかと思って首を傾げた。

 

 しばらくすると少女が再び姿を現した。黒豹に耳打ちをして、そして部屋の隅に座った。

 

「どうしたんだ」

 

「お前、後を付けられていたのも判らなかったのか?」

 

 エロウパが、がばっと振り返って部屋の外を見る。

 

「もう始末した」

 

「なんだと?」

 

 黒豹は少女を見る。エウロパもつられるようにして少女を見た。

 

「こんな子供がか?」

 

「お前の兵隊よりよっぽと優秀だ…」

 

「いったいどこの誰が。伯爵家には密偵はいないぞ」

 

「どうしてわかる?」

 

「伯爵は密偵を使ったことがないんだ」

 

 密偵を操るのは資金もさることならが、命令や指示を下したり、上がってくる報告の真偽を読みとる技術が必要であった。これには経験が必要であり、カサンドラ伯爵の密偵であるはずがなかった。あるいはエウロパの知らないところで伯爵が密偵を使っていると言う可能性もある。黒豹はそのことに気づいたが指摘しないことにした。

 

「ふん。そいつは面白い。つまり、お前はどこの誰かも判らない相手から監視されていると言うわけか。随分と注目されているんだな。まあいい、クラインはこっちで何とかする」

 

「当たり前だろう。まず金をくれ。そしたら約束の武器をなんとかしてやる」

 

「わかった。そのかわり…」

 

「わかってるって、約束通りカーレの方はなんとかするって」

 

「今度はしくじるなよ。しくじったら殺す」

 

「俺は失敗などしないぜ、お宅のところの大熊とか言う奴は違ったみたいだがな」

 

 黒豹は目を剥いてエウロパを見据えた。

 

 

 

 

 グロッグ号の航海は順調だった。舳先が雲の海をかき分け、静かに耳を傾けると漕手頭の叩く木鎚の音もゆったりと聞こえる。

 

 雲の上にはもはや星空を覆う物もなく、月が銀鏡のように輝いていた。

 

 クラインは、あてがわれた船室で村正の手入れをしていた。月の光に妖しい光を放ちながらも村正はクラインの手入れに身を任せている。

 

 刀身に打粉をまぶして、なめし革で油を拭き落とす。そして新しい油を薄く塗る。

 

 すっかりその作業に慣れたクラインは、刀の柄を片手で握りながらその輝きを眺めた。

 

 刀身にうねる刃紋。全体から放たれる妖しい気配。もし、心を静める術をしらなければクラインもその麻薬のような輝きに魅入られてしまったかもしれない。だがクラインは冷静に村正に語りかけ、村正の言葉を聞き取ろうとした。

 

 宝石も鉄のかたまりである刀も、実は気分のようなものを持っている。人間のするような思考とか感情とまではいかないが、かすかながら何かを放っている。クラインはそれを感じることが出来た。特に村正は、作成の途上で練り込まれた情念が深く、とても強い気を放っている。

 

 今夜の『羅刹刀村正』は何か高ぶっている様子であった。

 

「誰かいるの?」

 

 思わず声を出して訊ねた。例えれば、若い娘が、好きな男の側にいて落ち着かない気分になっている。そんな様子なのだ。もしクラインが、数枚の壁を隔てた向こうにこの刀の主人がいることを知ったら「まあ、そうだったの」と納得しただろう。

 

「お嬢様…?」

 

 サクラーが傍らに腰を下ろした。

 

「どうしました?」

 

「ご報告を申し上げて宜しいでしょうか…」

 

 クラインは黙って村正を注視しつつ頷いた。

 

「出航直前にエウロパの元に何者かが手紙を手渡したとの由(よし)」

 

「差出人は判りますか?」

 

「手の者をやってエウロパの後を付けさせました。後ほど知らせが届きましょう」

 

「そうですか」

 

「でもお嬢様、あの男は危険です。お嬢様の言われたとおり裏で何をしているか判らないですわ」

 

 クラインはサクラーの言葉を聞く振り向いた。

 

「ありがとう。サクラーがいてくれて良かった。わたしは一人では何も出来ないもの。お姉さんが出来た気分でとても心強いわ」

 

 サクラーは目頭が熱くなった。

 

 伯爵家に仕えて10年、クラインの事を内心妹のように思って来た。だからこそ自由のを得てもクラインから離れようと思わなかったのである。クラインの為に一肌脱ぐ決心をした時もその為に自分の前身を明かすことになっても危険とは思わなかった。クラインがそれを知ったからと言って態度を変えるような娘ではないと判っていたからである。

 

 クラインがエウロパの身辺を探りたいと言い出したのは、エウロパの言動には嘘や裏が多いと言うことがはっきりしてからである。そもそも何故嘘などつく必要があったのか?影で何をしているのか?思いを巡らせれば巡らせるほどクラインの霊感は危険を告げた。

 

 悩んだクラインはサクラーに相談する。

 

 遅々として進まない柊の捜索とエウロパの危険についてを相談すると、クラインに驚くべき事を告白をされた。サクラーはかつて盗賊であったと言うのだ。しかもかなり組織的な活動をする盗賊の一味で、彼女はその組織の密偵の一人として、貴族の館に侵入し、あるいは田舎娘を装って仕え財宝の在処や、その家の内情を調べ報告すると言うことをしていたのである。彼女が奴隷となったのも、潜入していた家で、仲間の失敗から盗賊の一味であることを知られての処罰だった。

 

 クラインと二、三打ち合わせをしたサクラーの対応は早い。クラインから資金の約束だけは取り付けると、かつての仲間を呼び寄せ、あるいは新規に気の利いた者を誘い、カーレの街に情報網を築いた。活動を開始して数ヶ月。まだ隅々にまで根を張るに至ってはいないが、カーレの裏の出来事のほとんどがサクラーの元に知らされるようになっている。柊の行方も、王都の商人に買われたらしいことまでは調べがついた。

 

 クラインは村正に目を戻した。

 

「あら、何かしら?」

 

 村正がクラインに何か異常を告げていた。

 

 クラインの霊感と村正の輝きは危険の接近を告げていた。

 

 

 

 

 巡航速度。

 

 深夜、漕役奴隷達は半分ずつ交代を船を漕ぐ。柊は休みを取る順番であったが、珍しいことに妙に気がたかぶって眠ることが出来ないでいる。ただ櫂にしがみついて眠ろうと目を閉じているだけであった。

 

 ふと、呼ばれたような気配を感じて顔を上げる。

 

 採光窓の向こうには星が瞬いていた。

 

 突然、甲板の上で乗員達があわてたように走り回った。叫びと怒号が響きながら船長の命令する声もかすかに聞こえた。

 

「総員起こし!全速!高度下げ!」

 

 どたどたどたと階段を降りてくる音と共に漕手頭が駆け下りてきた。

 

「全員起きろ!」

 

 鞭を振り回しながら眠っていた奴隷達をたたき起こす。奴隷達は眠い眼をこすりながらも機械的に櫂を手に取った。

 

「両舷。戦闘速度!」

 

 こいつは大事(おおごと)だ。

 

 柊はその号令に身震いした。戦闘速度はガレー船における最高速度である。漕役奴隷達はこれから過酷な全力疾走を強いられるのである。

 

「はじめ!」

 

 リズミカルな木槌の音も柊達にとって地獄のリズムである。息を絶え絶えになりながらも全力で、素早く櫂を引いた。

 

 甲板を走り回る乗員達の混乱ぶりも次第に収まってきた。

 

「左後方に敵!」

 

 敵と言う声を柊の聴覚は鋭く捕らえた。後方から何かが襲ってくるのだ。

 

「海賊だ!もっと速く!もっと速く!」

 

 ヒステリックな声が上から降りてくる。鞭が振り回されて甲高い音を上げる。だが、寝込みをたたき起こされ身体が暖まっていない状態では全力疾走が続くはずない。三〇分も過ぎると漕役奴隷の中から胸を押さえて倒れる者も出てきた。

 

「何をしている!」

 

 倒れた奴隷を漕手頭が鞭で乱打する。だがもはや疲労困憊した奴隷達はいくら鞭打たれても動くことは出来ない。一人、また一人と脱落者を出し加速度的に船足は遅くなり始めた。

 

 突然、身を跳ね上がらせる程の激震と木材のひしゃげる音が船体を包んだ。

 

 船倉の壁が突き破られて漕手頭をはじめ何人かの奴隷達がそれに巻き込まれて倒れる。

 

 急激に高度を下げる落下の感覚に柊は周囲の木材にしがみつくようにして身を支えた。

 

 騒音が鎮まると素早く身を起こして周囲を見渡す。誰一人として立っている者もいない。見ると目前には漕手頭が倒れていた。

 

 漕手頭に近寄るとすでに息は停まっている。

 

 船体がきしみ竜骨が捻れる。柊は全身で船の崩壊を予感した。

 

 漕手頭の腰には足枷の鍵がぶら下がっている。柊は素早くそれを取り上げると自分の足枷をはずした。鍵は側にいた奴隷に手渡す。半年の間、耐えに耐えて待ち続けていたチャンスの到来に柊の心臓は高鳴った。

 

 

 

 

 狭い階段を駆け上がると、甲板の上は血の海だった。

 

 突然襲ってきた海賊にグロッグ号の船員達は果敢に抵抗した。しかし全く歯が立たない。たちまち打ち減らされ、切り倒され、抵抗を続ける者も多数の敵に襲われ絶望的となる。また一人、また一人と倒されて行った。

 

 甲板に姿を現した柊を見つけた海賊が、乗員の一人と思ってか斬りかかって行く。

 

 柊は剣の下をくぐるように身を捌き、右足を甲板を踏み抜くほどに踏み込むと両腕で櫂を押すように突き出した。半年の間、毎日毎日繰り返した動作だ。咄嗟に出る。

 

 『双掌』。荒蕪流の代表的な技である。

 

 柊の両掌を受けた海賊は身体を『つ』の字に折れ曲がらせて数メートル程はじけ飛んだ。勢いそのままで舷側から落下して行く。

 

 戦場となっていた甲板が一瞬静まり返った。

 

 何が起きたのか判らなかったが、仲間がこの男に倒されたのは確かである。数十人の海賊達は矛先を柊に向けて群がった。

 

 さすがに一度にこれだけの人数を相手にしては勝ち目がない。柊は素早く身を返すと甲板を走り回るようにして逃げた。

 

 時折振り返っては追いつこうとする敵を倒す。柊の突きを受けると大抵、一撃で昏倒する。柊の突きは、たいして力があるように思えないのに当たったかと思うと身体の芯がバラバラになってしまうほどにこたえた。

 

「どうした。クラインは見つかったか?」

 

 新手と共に乗り込んできた黒豹に海賊の一人が報告した。

 

「それどころじゃありません。とんでもなく強いやつがいまして」

 

 そう言って剣先を向けた方向に柊がいた。甲板を走り回りながら群がる海賊を一人ずつ、舞うような動作で打ち、蹴り、掴み、投げ、倒していく。

 

「本当かよ」

 

 黒豹は簡単の呻きをあげた。

 

「こんな見事な立ち回りは始めてだ…」

 

 黒豹は笑みすら浮かべると、引き込まれるように甲板を横断した。

 

 柊を取り囲む海賊達も黒豹の登場に斬りかかるのを止める。

 

「お前、名前は?」

 

 笑みを浮かべている黒い肌の男に、無表情のまま「柊(ひいらぎ)」と名乗る。

 

 かつての、陽気でおしゃべりだった頃の面影はどこにもいない。過酷な奴隷生活が、彼の性格を根底から変えていた。

 

 どこかで耳にしたことのある名前だ。黒豹はそう思いつつも前に進む。

 

「見事な腕前だな…俺と勝負しよう」

 

 黒豹は剣を抜いた。両刃の直剣である。両腕で柄を握ると柊に剣先を向ける。

 

 しかし柊は、身構えることもなく立ち姿のままだった。

 

 これを見た黒豹は躊躇ってしまった。この男、素手でなのにさっぱりと臆する様子がない。自信たっぷりに立っているのはいったいどういうことか…。

 

 周囲の海賊達も何がおこるのかと息を飲んで見ていた。

 

 

 

 

 サクラーはクラインの部屋にいて海賊の襲撃を知った。

 

 海賊に襲撃されて女が無事でいられるはずがない。陵辱され最期には娼館に売られるのは良い方で、最悪の場合は海賊達の慰み者として短めの生涯を過ごすことになる。その事を知っているサクラーは、荷物をドアの前に積み上げてバリケードを築くと、クラインに大事な物をまとめさせた。

 

 クラインは案外と身軽い。大事な物と言われて村正を抱えただけである。サクラーは村正は手がふさがるので良くないと思って、紐をつけて背中に背負わせる。

 

 サクラーはクラインに、宝石箱の中からダイヤのピアスを選びだすと耳につけさせた。クラインが持っている唯一に近い宝石だ。

 

「こんな物いりませんわ」

 

「お嬢様。これさえあれば人の善意に報いることも出来ます。悪意を持つ者も懐柔することも出来ます。欲に目のない者は買収することも出来ましょう。邪魔になるものではないのですから、是非お持ち下さい」

 

 そう言って窓を開け周囲を見渡した。

 

 窓の外は夜の樹海が広がっている。月明かりで下界の様子が見えるが、だいぶ高度が落ちてきているようだった。風は湿気を帯びていて温い。

 

「お嬢様、この船は墜ちます」

 

「墜ちるのですか?」

 

「はい。しかし、どんな時も諦めてはいけません。必ず生き残るのだと決めて下さい。何を犠牲にしても生き残らなくてはいけません」

 

「で、でも」

 

「その剣を持ち主の方に返すのでしょう?」

 

「ええ」

 

「では、必ず生き残りなさい」

 

 クラインはサクラーのきっぱりとした口調に頷いた。

 

「サ、サクラーは?」

 

「お嬢様、私も簡単には死なないと決めています。このサクラー、良い男を掴まえるまで死んでたまるものですか」

 

 今年二九才になるサクラーのその言葉に、クラインも笑みをこぼさずにいられなかった。

 

 

 

 

 二隻の飛行船がもつれ合うようにして高度をどんどんと落としていく。商船の風船からガスがどんどん放出されているのだ。こうした襲撃では甲板を制圧すると繰船を支配して船を停めるのが手順である。しかし甲板の上では、海賊達が折角占領した船から財宝を奪うでもなく、クラインを探すでもなく、船を停めるでも無く、ただただ凍り付いていた。

 

 これも黒豹が剣を構えたまま動かなかったからである。

 

 海賊達はそんな情景を初めて見た。反乱以降、盗賊や海賊家業に身をやつしていたが、どの戦いでも黒豹は敵をいとも簡単に葬ってきた。なのに素手の男に、黒豹が斬りかかることを躊躇っている。

 

 痺れを切らした海賊の一人が柊を背後から襲った。

 

 その素早い斬撃には、黒豹ですら柊が倒されると思ったほどだ。しかし柊は、ほんのわずかな動作で素早く移動すると海賊の懐に入り込み、その剣刃をかわして剣を奪い取ってしまう。しかも剣を奪われた海賊は、自らの剣で首を切られて柊の足下に血の海を作った。

 

「ちっ、なまくら」

 

 柊は剣のなまくら具合に腹を立てた。村正なら首が跳んでいただろう。

 

 奪った剣は両刃で肉が厚く非常に重い。扱うのに相当の腕力を必要とし、しかも振り回す度に身体まで振り回されてしまうような代物である。用法も斬ると言うより力任せに叩くに近く、切れ味はお世辞にも良いとは言えなかった。だがそれでも海賊は死んだ。黒豹も海賊達も、まるで背中に眼がついているような柊の技にどよめいている。一瞬たりとも振り向くことなく後ろの敵を葬ってしまう。いったいなんなのだこの男は、と。

 

 仲間を殺された憤りで何人かの海賊がバラバラと斬りかかった。だが剣を一合も合わすことも無く、海賊達は胴を割られ、腕を落とされて倒れる。長身の男が大上段に構えて剣を振り下ろすと、柊はほとんど同時に剣を降ろしていながら、男の両腕を切って落としてなおかつ無事だった。

 

 黒豹はその技を見てハッとした。

 

「お前か!大熊を殺したのは」

 

 その声に海賊達は身を引いた。黒豹の表情を伺う。黒豹が大熊ビットを倒した男の腕を高く評価し同時に怖れていたことを皆、知っていた。

 

「今のその技…ビットを倒した技だな」

 

 柊は大熊ビットが誰だか知らない。だが、樹海で倒した巨漢のことだなと判った。

 

「だったらどうする」

 

「手加減は無しだ」

 

 黒豹はそう言って左手でも剣を抜いた。双剣こそ黒豹の本領だった。

 

「二刀か」

 

 柊はそうつぶやくと奪った海賊の剣を下段に構える。黒豹は鳥の翼のように両手を大きく広げて剣を左右に開いた構えだ。

 

 間合いが取りづらい。柊はそのことを直感的に感じ居心地の良い距離を取った。

 

 柊の技のほとんどが『間合い』と『兆し』を見切って居合いで斬撃を送る瞬間的な技である。大抵は一瞬で勝負が決まる。だが黒豹の双剣を広げた構えは複雑な間合いを形成していて隙間が見えてこない。だからより広い『間』が必要となる。

 

 右で受けても左で突かれる。ならば左を、いや今度は逆になるか…。そんな風に考えているわけではない。ただ、ぼやっと立っていると言うのが表現としては近いだろう。意念を一ヶ所に留めず全体をまとめて観る。自然体で構えることによって相手の動きがよく見えてくるし、相手の技や構えに対しての有効的な動作も考えるまでもなく自然と浮かんでくるのである。そしてその場に相応しい正しい間合いや構えが居心地の良いものとして感じられる。

 

 正しい練習の成果として、柊はその境地にまで達していた。

 

 対するに黒豹の技はあくまでも理詰めであった。

 

 試行錯誤の結果として双剣を選び、スピードと腕力と反射神経を徹底的に磨き上げてきた。全身を覆う筋肉はその成果だ。今は重たい剣も片手で軽々と扱える。その斬撃の速さは誰にも負けないと言う自負があった。両手を大きく広げる構えも経験と黒豹なりの計算に支えられた構えなのである。

 

 だが、それにしても今一歩間合いを詰められない。下段に構えられた剣が足を払って来そうで思い切り踏み込めない。

 

 時間だけが過ぎて行った。

 

「樹海に落ちるぞ!」

 

 海賊船側の乗員の叫ぶ声が響いた。黒豹はそれを聴いて素早く身を伏せたが、柊にはそれが何を意味するかとっさに判断できなかった。

 

 突然、突き上げるような衝撃が船体を襲った。轟音と共に甲板が突然せり上がり、まるでひっくり返るほどに傾く。柊はそのまま樹海へと放り出されてしまった。

 

 黒豹はずり落ちながらなんとか舷側の手すりにつかまると、目前の強敵があっけなく樹海の底へと消えていくのを見送った。

 

「ちっ…なんてこった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


琥珀のコメント

わ〜い、わ〜い☆

バトルだ♪バトルだ〜〜♪

親友の仇討ちに燃える、黒豹ゲルニック。

すっかり変わってしまった柊さん。

クラインさんの元で、主を待つ『羅刹刀村正』

しかし、いいところで樹海へと吹っ飛んでしまった柊さん。

あう〜ん(泣)

とても続きが気になるぅ〜〜

さあ、次回もサービスサービスゥ♪(爆)

・・・・・・・・・してくださいね、たくさん様☆


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