崩れ落ちるべき雪が、全て崩れてしまえば雪崩はおわる。
雪霧に覆われた視界がだんだんと晴れて、山、樹氷、そして彼方に広がる山脈が見え始めた。
眼下には、白い風景だけが広がっている。ついさっきまで、そこにいたはずの走士や、ハキムの兵士達の姿が見えない。雪に飲み込まれてしまったのだ。
表層雪崩とは言え、雪に埋められれば人は15分が生存限界である。砂漠生まれのシバがそのことを知っているわけではないが、それでもソウシの命が今、危機に瀕していることは本能的に察した。
不安と恐怖が、シバの心と体をギリギリと締め付ける。
「ソウシっ!」
シバは、弾かれたように駆けだした。とにかく走った。
斜面を転がるように下る。実際、転がったほうが速いとわかれば自分から転がった。
「ソウシっ、ソウシっ、ソウシィ!」
繰り返しその名を呼ぶ。全てを声に変えて叫ぶ、のどを引き裂くほどに叫んだ。
だが、雪の大地はそんな声すら飲み込んで、沈黙を守る。
見失う寸前まで、ソウシがいた場所に見当をつけて雪を掘る。ここかっ、そこかっ、別の場所かっ、はやく見つけないとソウシが死んじゃう。
焦る、シバ。
何度目かに雪の中に手を突っ込んだ時、雪とは明らかに異なる柔らかい感触があった。
「ソウシっ!」
大急ぎで雪を掻き出す。必死に掘り起こした。
この下に埋まる物体が、人であることは確かだった。そしてシバは、それがソウシであると信じて疑わなかった。
幸いなことに、雪は柔らかくて軽い。
次第に、埋まっていた人間がその姿を現した。
腰、背中、肩、頭と掘り起こしていき、やがてうつ伏せに倒れる姿が現れる。
雪にまみれた男を確認しようと、シバはそれをひっくり返そうとした、その時である。
突然、倒れていた男がシバに襲いかかった。
その男は、ハキムの兵士だった。
「……」
驚愕のあまり声も出ない。
身がすくんでしまって、抵抗も出来ない。
男はシバに覆い被さると、その細い首を両手で締め上げ始めた。
「ぐふっ……けへっ」
喉が、ドンドンと締め上げられていく。
頭が熱く重くなっていく。
雪の冷たさも、喉の苦しみも、視界がゆがむと同時に次第にぼやけていく。
このまま死んでしまう。
死んでしまえば全ての苦しみが終わるだろう。それも悪くないなぁと思った。
自分に覆い被さる男の形相が気持ち悪い。
最期に見るのがこれでは嫌だなと思い、視線を横に逸らした。
雪の景色。
山脈。
蒼い空。
綺麗だけど、もう見飽きた。
ふと、視野の中にある雪の下から突き出る手に気づく。
「手?」
消えそうになっていた意識が、明確になった。
それは確かに、間違いなくソウシの手だった。まだ十代の、それでいて様々な困難と苦痛をはねのけてきた手である。絶望の闇の中を、引っ張り続けてくれた男の手だった。
死ぬわけにはいかない。
もう一度、あの男に抱いて貰うまで、死ぬわけには行かない。
ソウシの手の感触が胸に蘇った。
あの時は、嬉しかった。自分という存在が絶望の地にあってまだ、男を奮い立たせることが出来るのだと知って、心の底から喜びを感じていた。
あの男の子供を産むのだ。
何故か知らないが、唐突にそう思った。そしてその考えはシバに力を与えた。
最期の力を振り絞って足を引き寄せて、男の腹に押し当てる。そしてそれを思いっきり突き延ばした。
男ははじき飛ばされ、喉が軽くなる。
解放された気道から、急激に新鮮な空気が流れて来て肺が痛い。
「ゲホッ、グホッ…」
シバは喉を押さえながらも、男から一ミリでも遠ざかろうと、雪の大地を這った。
男が、再度襲いかかってくる。
腰にしがみつかれ、シバは渾身の力で男の顔を手のひらで押しやる。
男の手がシバの首元に伸びてくる。
顔や首、肩の肌がひっかかれて深い傷が刻まれてしまうがシバは気にしない。
仕返しとばかりに男の顔に爪を食い込ませる。
「うがあああああ」
男が吼える。
「死んでたまるかっ!私は生きるんだっ」
シバは宣言すると男の手に、噛みついた。
遠慮のない噛みつきに、ガキッという骨の感触があった。
口の中に錆びたような生暖かい味が広がる。
「ウグゥ」
苦痛に顔をしかめる男は、手を押さえてシバから離れる。
そして男の顔が爆発した。
7.62ミリ弾は、通常鉛の弾身に銅製の被甲をかぶせたものである。
人体に進入するとこの弾丸はマッシュルーム状に姿を変え、回転しながら組織を引き裂き、突き抜ける際には周辺の組織を道連れにして飛び出していく。
男の頭は、割れたスイカのようになっていた。
まず崩れ落ちるように膝をつく。そのままぐらりと倒れて、雪を血で染めた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ…」
シバは返り血を体のあちこちで受けながらも、何が起きたのか理解できなかった。
ふと、顔を上げると『雪女』が立っている。
来日したばかりの時に読んだ漫画だったか、聞いた物語だったか、それは雪深い山に住む美しい妖怪だという。シバは、目前に現れた女こそ、雪女だと思った。
冷たい視線。
さわったりしたら、切れてしまいそうな美しさ。
全身を雪色の服で包み、手にはライフル銃を提げていた。
その女は、肩で息をしなからシバを見下ろす。
「ソウシはどこ?」
ソウシの名に、シバは弾かれたようにソウシの元へと走った。
雪から突き出る手が目印になった。
女二人で雪を掘ると程なくして、シバを導き護り続けた男が顔を出した。
おそるおそる、触れてみる。
その身体は、雪にひえて冷たい。
敵の弾を受けたのか、防寒着の肩は血に染まっていた。
瞼も閉じている。
唇は、青紫色に…その肌には血の気がなかった。
何よりも、息をしてない。
「嘘でしょ…ねぇ…」
シバは、ソウシを揺り動かした。
「ちょっと…冗談でしょ。何寝てるのよ、起きてよ、起きてってばっ!」
男を目覚めさせようとして、シバは必死で揺り動かした。
すると雪女に、押しのけられる。
雪女はシバからソウシを奪うと、その胸に耳を当てたれしながら様子を確認して、人工呼吸と心臓マッサージを施し始めた。
傍らで黙って見ているしかないシバ。
「起きなさいよっ、ソウシ。約束したでしょっ、あたしを逃がしてくれるって約束したじゃないのよっ」
ぽろぽろと、熱い涙があふれ出てくる。
「起きてよっ!お願いだから、あたしを一人にしないでっ。死んじゃやだ、死んじゃやだよぉ」
シバは、ソウシにすがりついて泣いた。
割れんばかりに、声を上げて泣く。
ソウシという存在が、自分にとってどれほど救いになったのか、今更ながら気づく。
「まだ、ちゃんと話しもしてないよ。ソウシのこと何も知らないよっ」
どうして、こんな歳で工作員なんかになったのか、どこで生まれたのか、どんな食べ物が好きで、どんな音楽を聴くのか。そもそも出雲 走士などという名前が、ホントのものかどうかも怪しい。こうして頼りにしていながら、実はソウシのことを何一つ知らないのだと気づいて愕然としていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい…」
ソウシの目を盗んで、電話をかけに行こうと思ったりしなければ、こんなことにならなかったと、後悔の念が次から次へと自分を責め立てた。
その横では、雪女が規則的に人工呼吸を続けている。
冷静そうに見えるが、その額には珠のような汗が浮かび、眦には小さな滴がついている。
「神様っ、悔い改めます。お願いですからあたしからソウシを取り上げないでください」
シバは心から祈った。祖国の言葉で久しぶりに祈った。
雪女の動きが変わった。
「…」
ソウシの胸に耳をあてている。
「どうしたの?」
たずねかけると、刺すような視線で黙れと言われた。
仕方なく静かにする。
しばらくすると雪女は、ホッとした表情で大きなため息をついた。
疲れたようにへたり込んでしまう。それはどう見ても絶望ではなく安堵のそれだった。
シバは、恐る恐るソウシの胸に耳を当てた。
厚手の防寒着越しでよく聞こえないが、何か聞こえた気がした。
そっと耳を澄ます。自分の呼吸音のほうがうるさいくらい。
ソウシのスキーウェアを開いて、直接胸に耳をあててみた。
トクッ、トクッ、トクッ…
一瞬顔を、起こす。
確かめるために、もう一度胸に耳を当てる。
ソウシの鼓動の音が、確かに聞こえた。
間違いない、生きてる。
その顔にも血の気が蘇って来ている。
シバは感極まって、ソウシの唇に自分の唇を重ねた。
貪るようなキスを、息が詰まるまで続ける。
「…っ」
何かが両腕が、シバの背中を掻きむしり始めた。
「っぷぅぅはああああ…」
シバを無理矢理引き剥がしたソウシが、ぜいぜいと呼吸を荒げながら怒鳴る。
「殺す気かっ!」
「ソウシぃぃぃぃ」
シバは、今度はうれし泣きで涙を流し、ソウシにすがった。
県警察のヘリコプターが、長野の山中を舞う。
シバやソウシ、そしてそれを追うテロリスト達の捜索が彼らに課せられた指命である。
同乗している健軍も、双眼鏡で下界を舐めるように見ていた。
だが、白い大地にはシミ一つない。これまでは人の姿どころか、痕跡も見つかっていなかった。
そろそろ燃料が残り少なくなり、もう引き返さなければならなくなった頃である。
「あっ」
パイロットが声を上げた。
「見えますか。あのあたりです」
山の中腹に何かを見つけたパイロットは、高度を下げながら機首をそちらへと向けた。
健軍も、双眼鏡を向けた。
確かに、何かがあるのが見えた。
白い雪面に誰かが倒れ、赤いシミが広がっている。
報告は、パイロットが無線で行った。
「近づけるか?」
不用意に山に近づくと、風にあおられた機体が斜面にたたきつけられるおそれがある。パイロットは、慎重に、風下から機体を寄せた。
だが山の風はすぐに向きを変える。突然の突風に、機体があおられた。ローターの生み出す強風が、雪面をたたき積もっていた雪が吹き上げられる。
その偶然が、雪の下に隠されていたモノを露わにした。
覆い被さった粉雪が払われ、死体が姿を現す
「うわっ」
声を上げる健軍。
「どうやら、雪崩に飲まれたみたいですね…」
「とにかく山口主任に連絡してくれ。ホトケを放っておく訳にもいかないからな」
健軍は、パイロットにもう少し高度を落とせないかと尋ねた。
もう無理との答えが帰ってくる。
「女の子がいるかどうか確認しなきゃなんないんだ。頼むよ」
「ダメですよ。迂闊に近づいて風にあおられたら、今度は墜落するかも知れませんよ」
パイロットはそう口答えしながらも、おおよそ限界と思われるまで高度を下げてくれた。
「ダメだな。ほとんどがうつ伏せに倒れているから、見分けられない」
「仕方ないです。どこか降りられそうなところを探しましょう。そこから歩いていけばいい」
そんな悠長なことはやってられない。
防寒着の前を閉じながらパイロットにたずねる。
「このあたりは雪は深いのかな?」
「4〜5メートルは積もっているそうですよって…あんた、何やってるんだっ!」
健軍はドアを開けて、外へ降りようとしている。
下までは、二十メートルはある。
パイロットの制止を振り切って健軍はヘリコプターから飛び降りた。
「馬鹿っ!」
パイロットの声を背中に、墜ちていく。
人が、ほとんどはいらない雪山であることが幸いして厚い新雪が、健軍を受け止めてくれた。ただし、かなりの深さまで埋まったが…。
ヘリが、頭上で旋回する。
健軍は雪から這い出して無事を知らせると、死体を一つ一つあらためた。
M16を抱えたアラブ系の男達ばかり。
みな、驚愕と恐怖の表情を固まらせたまま、死んでいた。
中でも死体の一つは、頭を強力な銃で撃ち抜かれて倒れている。
見た範囲には娘の死体はない。走士らしき少年の姿もない。
健軍のカンは、シバやソウシは生きていると囁いていた。
この作品は小説です。物語です。従ってフィクションであり、現実の事件や政府機関、国家、宗教とは全く関係がありません。いかな類似した出来事がありましてもそれらはすべて偶然の産物以外の何者でもありません。
再度書き始めました。