郷土意識が強く,武士の精神と商人の知恵が根づく
◆近世国名・藩名:大隅(おおすみ),薩摩(さつま)
2019年4月1日現在の推定人口は,1,604,247人 世帯数724,642世帯。
薩摩は,九州南部,鹿児島県西半部の旧国名で,慶長年間の石高は約28万石。古代は隼人(はやと)族の居住地。鎌倉時代に島津氏が守護となり,江戸時代には一国一藩を形成。島津藩の領地で「薩摩」と呼ばれていたが,廃藩置県で鹿児島県に編入した。
鹿児島県は,九州南端にあり,東西約270km,南北約600kmに広がり,総面積は9,187平方キロメートルで,薩摩半島,大隅半島の二つの半島と甑島,種子島,屋久島,トカラ列島,奄美群島など200有余の島々からなる。離島は,本県総面積の約27%と大きな比重を占める。
中央部を南北に霧島火山帯が縦断し,北部の霧島から南海のトカラ列島まで11の活火山が分布しており,豊富な温泉にも恵まれている。また,県下のほとんどの地域が地表の半分以上は,シラスとよばれる火砕流堆積物に覆われた台地からなる。
気候は,温帯気候帯から亜熱帯気候帯まで広範囲に及んでおり,年平均気温は15℃から23℃とかなりの温度差がある。降水量は地域によって相当の差があるが,おおむね2,000mmから3,000mmである。
夏秋期には,毎年のように暴風雨を伴う台風に見舞われる。その一方で,しばしば夏期には干ばつ害を受けている。
鹿児島県内人口のピークは1955年の204万4112人です。以降,減少しており,2040年の人口は131万4057人と推計されています。
鹿児島県の「1人あたりの県民所得」は平成20年度で,225万3000円と前の年度より4.9%減り,全国で42位である。内閣府が4月に公表した平成20年度の都道府県ごとの所得によると,鹿児島県のサラリーマンの所得や企業の利益などを合計した「県民所得」は,3兆8689億円あまりであった。
これを県の人口で割った1人あたりの県民所得は225万3000円で前の年度より11万7000円,率にして4.9%減である。全国平均の275万4000円より鹿児島県は50万円あまり少なく全国47都道府県の中では沖縄県,高知県,宮崎県,長崎県,島根県に次いで6番目に低い上位から42番目となった。
1位の東京都と比べると190万円あまり少なくなっている。
県民性
鹿児島は,南に位置するという地理的条件から,古くから中国や韓国,東南アジアをはじめ世界の国・地域の文化と接しながら,独自の歴史や文化を作り上げてきた。鎌倉時代から一貫して島津家の支配下にあったことや,江戸時代は一国一藩であったという歴史的背景があって,郷土意識が強く,士魂商才の伝統−−武士の精神と商人の知恵−が根づいている。
守旧,保守的で排他的傾向の強いな土地柄である。 愛知県になぞられて『鹿児島モンロー主義』ともたとえられる。上下関係に厳しく,年長者の影響力が強い体育会系気質でもある。かつては男尊女卑の県として知られたが,いまは,その気風は薄れている。
薩摩隼人(男)は,利害を省みない潔さと,勇猛果敢さを兼ね備え,質実剛健を良しとする。反面,「ばっけもん」といわれる言葉に象徴されるよう一本気で融通が利かないともいわれる。「焼酎気質」ともいわれるのは,“薩摩隼人”は,熱しやすく冷めやすいからとも。
日本の近代化に貢献した西郷隆盛や大久保利通など鹿児島県出身の数多くの人が,1868年の明治維新のときに重要な役割を果たした。このなごりが,戦前の警官を象徴する「オイ,コラ」という言葉。これらは,鹿児島弁であり東京のことばではなかった。
一方,「薩摩おごじょ」と呼ばれる女性は,控え目で気立てがよく,でしゃばる事が少なく気持ちが優しい女性が多いという。これはまた,男性をうまく引き立てる能力に長けるという表れでもあろう。
鹿児島には,薩摩藩の時代から伝わる「郷中教育(ごじゅうる)」という地域ごとの教育制度があって,昔は子供たちに薩摩に伝わる示現流という剣術や歴史,中国の古典などを教えていたという。
◎盛んなボランティア活動 −ボランティア活動の年間行動者率:32.6%(全国7位) ※社会生活統計指標2008(総務省統計局
ボランティア活動の行動者率7位と,ボランティア精神が旺盛で共助・助け合いの精神がうかがえる。
●鹿児島のイメージは黒
鹿児島のイメージカラーは「黒」。 黒豚,黒牛黒鶏,黒酢,黒焼酎,黒切子,黒薩摩(陶芸・薩摩焼),肥薩線の黒特急「はやとの風」,・・・・と鹿児島の暮らしには,たくさんの「黒」があふれています。
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/38/0000745738/34/img840e49e4zik7zj.jpeg
●参勤交代のエピソード−
徳川の参勤交代時代のことであろう,信州路の宿場に,次のような戯れ歌が残っていたという。
「人の悪いのは鍋島,薩摩 日暮れ六ツ泊りの七ツ立ち」
午後6時に泊まり,翌朝午前4時の早出発,鍋島,薩摩藩のミミッチさを歌った戯れ歌である。
(出典:長野県観光連盟編 信州歴史の旅 令文社刊)
徳川幕府は,大名たちが反族を翻すことがないように講じた手段の一つが,参勤交代の制度である。この制度は,大名たちに一年交代で江戸に参勤することと,夫人や嫡子の江戸在住を義務づけるもので,寛永十二(1635)年に改正された「武家諸法度 はっと」で明文化された。この制度により,大名たちは江戸と領国の二重生活を余儀なくされ,江戸での出費や旅費の工面に悩まされ続けたのである。島津氏がはじめて江戸に参勤したのは慶長12(1607〉年のことである。このときは島津家久が1180人あまりの藩士をしたがえて江戸にのぼり,二代将軍秀忠に拝謁し,芝に宅地をあたえられた。その後,島津氏も頻繁に参勤するようになり,桜田・高輪・田町などにも藩邸が設けられた。
江戸・鹿児島間はおよそ四四〇里(約1700キロ),大名のなかでもっとも遠方からの参勤であった。 江戸前期,薩摩半島西岸(川内・阿久根・出水 ・ せんだい あくね いずみ)または日向細島(宮崎児日向市)と大坂のあいだは海路を,大坂と江戸のあいだは東海道または中山道を利用していたが,中期以降は海路はあまり使われなくなり,山陽道・九州路(小倉から熊李出水を経て鹿児島に至る)を往復するようになった。所用日数は40日から60日前後。参勤についやす経費も莫大で,享保五(1720)年の参勤予算を例にとると,大判四枚,新小判六五〇枚,新一分金1200切,銀141貫,四宝銀698貫190日,銭三五六八貫文,米380石であった(「列朝制度」巻一五)。
江戸時代,参勤交代の制度などにより江戸と地方を結ぶ交通網が著しく整備されたが,島津氏の領国は日本の最南端に位置するため,領内を通過する大名もなく,また藩が他国人の出入りをきびしく制限していたため,宿場や街道の整備はよそよりたち遅れていた。
出典:『鹿児島県の歴史』 山川出版社 p176〜p177
薩摩の文化−語り物の伝統音楽・薩摩琵琶
鹿児島県の無形文化財に指定されている薩摩琵琶。このルーツは,盲僧によって宗教的儀式の中で使用された薩摩盲僧琵琶にあります。室町時代に当時の領主,島津忠良が武士教育のために作曲させたことから生まれ、明治時代に東京に伝わったとされています。 撥で弦や胴体部分を弾いて奏でられる薩摩琵琶、独特の力強くも奥深い音色にその歴史の長さを感じさせる奏でです。
⇒⇒YouTube 湯島天神「梅まつり」から、奏者は [桜井亜木子]。
http://www.youtube.com/watch?v=utbosC1Z29c
⇒⇒上田純子(うえだじゅんこ) :薩摩琵琶演奏家・声明家
http://www.junkoueda.com/ja/index.html
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地域区分
出典:鹿児島県庁ホームページ http://www.pref.kagoshima.jp/__filemst__/59617/kasotiikikubun.pdf
鹿児島地域: 鹿児島市 日置市 いちき串木野市 三島村 十島村
南薩地域: 枕崎市 指宿市 南さつま市 南九州市
北薩(ほくさつ)地域:阿久根市 出水市 薩摩川内市 さつま町 長島町
姶良・伊佐地域: 霧島市 伊佐市 加治木町 姶良町 蒲生町 湧水町
大隅地域: 鹿屋市 垂水市 曽於市 志布志市 大崎町 東串良町 錦江町 南大隅町 肝付町
熊毛: 西之表市 中種子町 南種子町 屋久島町
大島: 奄美市 大和村 宇検村 瀬戸内町 龍郷町 喜界町 徳之島町 天城町 伊仙町 和泊町 知名町 与論町
●県庁所在地:鹿児島市
人口:平成23年4月1日現在で,605,682人。 面積:546.95平方キロメートル 年間平均気温:19度 。
鹿児島市は,薩摩半島の北東部および桜島(さくらじま)全域を市域とし,北は姶良市、西は日置市、南は指宿市などと接している。市街地は、鹿児島湾に流入している甲突川など7つの中小河川により形成された小平野部にあり、その周辺は、海抜100mから300mの丘陵地帯(シラス台地)となっている。
鹿児島市は,島津77万石の城下町として栄え、幕末から明治時代には、西郷隆盛や大久保利通をはじめ多くの英傑を輩出した。島津家ゆかりの史跡や公園,庭園や,明治維新ゆかりの史跡も多い。
城山に立つと,煙突が一つも見えないというのが昔の鹿児島人の自慢であった。これを裏返せば,鹿児島の近代化の遅れを示すものでもあった。
錦江湾をはさんで対峙する桜島は,いまも活発な活動を続けている活火山 。北岳・中岳・南岳の3つから成り,周囲は約55km・面積は約77平方キロメートル。最高峰は北岳の1,117m。桜島が現在も活動を続けており、風向きによって、火山灰が市街地に降ることがある。(平成22年の桜島爆発回数896回、鹿児島市役所本庁での年間降灰量1,848g/平方メートル)
鹿児島市の気温は、過去5年間の平均気温によると、年間平均気温18.9度、夏季最高気温36.2度、冬季最低気温−0.6度であり、温暖な気候に恵まれている。年間降水量は、2,113ミリに達し、6月から7月にかけて最も多く、年間降水量の1/3はこの時期に降る。
鹿児島湾(錦江湾)を望み,桜島などに年間約900万人の観光客が訪れる。風景がイタリアのナポリ市に似ていることから,「東洋のナポリ」とも呼ばれる。
2011年3月には九州新幹線が全線開業し、鹿児島から大阪までは新幹線で約4時間で乗り換えなしでつながった。
大阪(新大阪)から |
最速3時間45分 |
広島から |
最速2時間23分 |
福岡(博多)から |
最速1時間19分 |
熊本から |
最速44分 |
- 所要時間は概算で、利用する列車によって異なります。
・まちを歩けば温泉に当たる
鹿児島市内には,天然温泉の公衆浴場が数多くある。市街地だけでも現在約50ヶ所の温泉が掘られている。
・天文館
鹿児島市の中央地区商店街は「天文館」の名称で親しまれる。天文館の名前は,幕末の薩摩藩主・島津重豪が建てた天文研究施設名を由来とする。約8.5ヘクタール内にある商業,飲食,娯楽などの施設が集中。とくに夜の天文館は歓楽街として,知られる。
・朝市
市内には,JR鹿児島中央駅近隣(バスターミナル周辺)と桜島桟橋近くの滑川通り周辺の2ヶ所で、取れた野菜や水揚げされたばかりの魚などを売る露天が軒を連ねている。
西日本新聞 九州データ・ブック2012デジタル | 稲盛和夫 生き方 | ||
「九州データ・ブック2012」は、自然、食、温泉など豊かな地域資源のほか、人口、経済、域内外交流、九州の中核エリアである福岡都市圏など多岐にわたるデータを収集し分析した。九州市場を読み解くには最良の本。 | 多くの人が人生の指針を見失っているこの混迷の時代に打ち込む、「生き方」という一本の杭。私たちの人生を成功と栄光に導き、また人類に平和と幸福をもたらす王道とは何か? 京セラ・KDDIを創業した著者が贈る、渾身の人生哲学。 | ||
● 2016年3月6日 初開催の「鹿児島マラソン」(鹿児島市主催)
来年3月6日に初開催の「鹿児島マラソン」(鹿児島市主催)の大会要項が決まりました。コースは,ドルフィンポート前をスタートし,姶良市重富で折り返し,鹿児島市役所前をフィニッシュとします。 ランナーの定員は、42.195kmを走るマラソンが1万人で,この中に特別エントリー枠として鹿児島市民枠が2500人分設けられています。また8.9kmを走るファンランの定員は2000人で、中学生以上が対象となります。定員を超えた場合は抽選となり、参加費は1万円です。
募集は8月3日からの約1カ月間で,インターネットなどで申し込めます。また今回,ランナーの受け付けや沿道の整理を担当するボランティアも、同時に募集します。
⇒⇒ 鹿児島マラソン2016 ⇒ http://www.kagoshima-marathon.jp/
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鹿児島県の人口
国立社会保障・人口問題研究所の『日本の地域別将来推計人口(平成25年3月推計)』によると,いまから25年後の2040年の鹿児島県の人口は,現在の165万8000人より約35万人減り,131万人と推計されることから,対策が急務となっている。
下の表は,2040年の鹿児島県 の市町村の人口ランキングである。
順位 | 市町村名 | 2040年推計人口 | 2010年人口 | 人口増減 | 増減率 % |
鹿児島県 | 1,314,057 | 1,706,242 | -392,185 | -23.0 | |
1 | 鹿児島市 | 519,563 | 605,846 | -86,283 | -14.2 |
2 | 霧島市 | 111,767 | 127,487 | -15,720 | -12.3 |
3 | 鹿屋市 | 87,659 | 105,070 | -17,411 | -16.6 |
4 | 薩摩川内市 | 77,359 | 99,589 | -22,230 | -22.3 |
5 | 姶良市 | 62,931 | 74,809 | -11,878 | -15.9 |
6 | 出水市 | 40,695 | 55,621 | -14,926 | -26.8 |
7 | 日置市 | 37,866 | 50,822 | -12,956 | -25.5 |
8 | 奄美市 | 30,775 | 46,121 | -15,346 | -33.3 |
9 | 指宿市 | 29,635 | 44,396 | -14,761 | -33.2 |
10 | 南さつま市 | 24,133 | 38,704 | -14,571 | -37.6 |
11 | 南九州市 | 23,666 | 39,065 | -15,399 | -39.4 |
12 | 志布志市 | 23,165 | 33,034 | -9,869 | -29.9 |
13 | 曽於市 | 23,134 | 39,221 | -16,087 | -41.0 |
14 | いちき串木野市 | 20,647 | 31,144 | -10,497 | -33.7 |
15 | 伊佐市 | 18,003 | 29,304 | -11,301 | -38.6 |
16 | さつま町 | 15,445 | 24,109 | -8,664 | -35.9 |
17 | 枕崎市 | 14,572 | 23,638 | -9,066 | -38.4 |
18 | 阿久根市 | 13,590 | 23,154 | -9,564 | -41.3 |
19 | 屋久島町 | 11,058 | 13,589 | -2,531 | -18.6 |
20 | 西之表市 | 10,522 | 16,951 | -6,429 | -37.9 |
21 | 肝付町 | 10,357 | 17,160 | -6,803 | -39.6 |
22 | 垂水市 | 9,508 | 17,248 | -7,740 | -44.9 |
- 人口の推移
昭和45年
|
50年
|
60年
|
平成2年
|
7年
|
12年
|
17年
|
22年 |
|
男
|
189,468
|
215,547
|
251,752
|
252,127
|
255,999
|
258,135
|
281,389
|
280,666 |
女
|
213,872
|
241,280
|
278,750
|
284,625
|
290,283
|
293,963
|
322,978
|
324,293 |
合計
|
403,340
|
456,827
|
530,502
|
536,752
|
546,282
|
552,098
|
604,367
|
604,959 |
世帯数
|
123,599
|
149,448
|
190,217
|
201,089
|
215,140
|
229,064
|
255,276
|
264,988 |
●鹿児島の大学 |
・鹿児島大学: (鹿児島市) |
地域特性
●地勢・気候
鹿児島県は,本土の西南部に位置し,その総面積は,約9,187平方キロメートルと全国第10位である。種子島,屋久島,奄美群島をはじめとする多くの離島は,県総面積の約27%と大きな比重を占めている。 中央部を南北に霧島火山帯が縦断し,北部の霧島から南海のトカラ列島まで七つの火山が分布し,豊富な温泉にも恵まれている。また,県内の大半の地域が火山噴出物でできたシラス層である。
気候は温帯から亜熱帯の気候区に属し,地域により変化に富んでいる。県本土の年間平均気温は17,18℃で,年間降水量は2200mm,温暖多雨の気候である。一方,種子島,屋久島から奄美群島にかけては年平均気温19〜22°Cで,年間降水量2300mmと亜熱帯気候に属する。
●離島の多い県
鹿児島県は離島の数では,全国4位である。種子島や屋久島,『Dr.コトー診療所』のモデルともなった甑島,奄美大島といった大きな島の他に,31の有人島と,6つの無人島がある。
*日本の島の数:「島とは,自然に形成された陸地で高潮時に水に囲まれ水面上にあり,植物の生育が認められるもの」との定義があるが,明確には定まってはいない。海上保安庁調査,「日本統計年鑑」によると日本の島の数は,6852である。この数字には歯舞群島,色丹島,国後島および択捉島も含まれる。
鹿児島県の離島の存在意義としては,@観光光資源,A農水産物の生産・供給拠点,B日本の領海維持の3つがあげられる。
・
奄美諸島 (名瀬市,大和村,宇検村,瀬戸内町,住用村,龍郷町,笠利町,喜界町,徳之島町,天城町,伊仙町,和泊町,知名町,与論町)
・種子島・屋久島
(西之表市,中種子町,南種子町,上屋久町,屋久町)
・その他の島
(里村,上甑村,下甑村,鹿島村,東町,三島村,十島村)
三島村は屋久島の西に位置し3島4集落がある。十島(とから)村は種子・屋久の南にあって南北に連なり,有人7島がある。交通手段は両村とも週2〜3便の定期船のみで,鹿児島市からの所要時間は三島村まで片道3〜6時間,十島村まで片道6〜13時間である。
●7島しかないのになぜ十島村?
縄文杉で有名な屋久島と、奄美大島との間に連なっているとから列島に、十島村(としまむら)という人口わずか600人あまりの小さな村がある。口之島、中之島、臥蛇島(がじゃ)、平島(たいら)、諏訪之瀬島、悪石島(あくせき)、宝島の主要7島からなる村である。7島なのに、どういうわけか村名は十島村(としまむら)という。
そもそも十島村と名乗ってはいるものの、実際には7島のほかに小臥蛇島(こがじゃ)、小島、小宝島、上ノ根島、横当島(よこあて)という小さな5つの島を合わせて、合計12の島を領域としている。だが、村名の由来となった島は、あくまでも口之島や中之島などの主要7島だった。ややこしいが、かつてはこれら7つの島(下七島)と、それよりはるか北に浮かぶ上三島(竹島、硫黄島、 黒島) を合わせた河辺十島(かわなべじっとう)で、十島村(じっとうそん)を形成していたのである。
しかし、第二次世界大戦後の1946 (昭和21) 年から、北緯30度以南がアメリカ軍に占に領された。これにより,十島村は北緯30度で上三島と、下七島の二つの地域に分断されてしまったのである。北緯30度以南は日本の統治権が及ばない事実上の外国になった。つまり、村内に国境が引かれることになったのだ。それまで、十島村の役場はアメリカに占領された中之島に置かれていたため、日本に残った上三島には役場が存在しなくなった。そこで止むを得ず、残された上三島だけで十島村を引継ぎ、仮の役場を鹿児島市に設置することになった。
6年後の1952(昭和27)年に下七島は日本に返還された。上三島と下七島がもとのひとつの自治体に戻ることはなかった。下七島が日本に復帰したのを機に、上三島は三島村として独立した。
「地域ブランド調査2012」 −18位
●昨年の17位から一つ順位を下げる
民間コンサルタント会社「ブランド総合研究所」(東京都)が実施の,47都道府県と全国1000市区町村を対象にした「地域ブランド調査2012」で,鹿児島県は昨年の17位から一つ順位を下げて18位となった。市区町村別の魅力度では,県内最高は指宿市で64位,鹿児島市が73位と続いた。
▼「地域ブランド調査2012」とは
「地域ブランド調査2012」は,1,047の地域(1,000市町村,及び47都道府県)を調査対象とし,全国3万人が各地域のブランド力を徹底評価する日本最大規模の消費者調査です。2006年に調査を開始し,毎年実施しているもので今回で7回目の実施となります。
調査はそれぞれの地域に対して魅力度,認知度,情報接触度,各地域のイメージ(「歴史・文化のまち」など16項目),情報接触経路(「旅番組」など16項目),観光意欲度,居住意欲度,産品の購入意欲度,地域資源の評価(「街並みや魅力的な建造物がある」など16項目)などを質問。調査項目は全72項目に及び,各地域の現状を多角的に分析できます
出典:地域ブランド調査2012 都道府県ランキング
鹿児島ゆかりの人
●西郷隆盛
西郷隆盛その人を撮影した写真は一枚も確認されていません。私たちになじみのある肖像は西郷の死後、外国人技師が親族(実弟と従兄弟(いとこ))の顔から作りあげた想像の産物です。この肖像画が元になり、「西郷の顔」と言えば、どんぐり眼(まなこ)に太い眉が定着しました。
『西郷の貌 』は,明治政府には西郷の本当の顔を封じ込めなければならない理由があった,として−−その謎を解読しながら,が若き日の西郷の実像を明らかにして行きます。
海音寺潮五郎記念館 閉館へ 東京 | 2012年11月26日 |
鹿児島県伊佐市出身で「天と地と」「西郷隆盛」などの歴史小説で知られる作家で、司馬遼太郎に影響の師匠筋に当たる海音寺潮五郎(かいおんじ
ちょうごろう 1901〜77年)を顕彰する財団法人「海音寺潮五郎記念館」(東京都世田谷区経堂2-12-9
)が、解散の手続きを進めている。
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天と地と(上) [ 海音寺潮五郎 ] | 天と地と(中) [ 海音寺潮五郎 ] | 天と地と(下) [ 海音寺潮五郎 ] | |||||||
大河ドラマ | |||||||||
10世紀中頃、華やかな藤原権勢の世に弓引いた坂東の風雲児・平将門と西海の雄・藤原純友。律令... |
鹿児島の本 | |
鹿児島DVD |
「永遠の0」「風立ちぬ」効果? 鹿屋航空基地史料館、入館者150万人に [鹿児島県]
2013年08月02日(最終更新 2013年08月02日 00時09分)
150万人目の入場者となり、くす玉を割る一家
150万人目の入場者となり、くす玉を割る一家
旧日本軍特攻隊に関する史料などを展示する鹿児島県鹿屋市の鹿屋航空基地史料館の入場者が1日、通算150万人に達した。
150万人目となったのは同市寿8丁目の会社員、神野晋吾さん(41)と妻みゆきさん(38)、長男の匠哉君(2)の家族。同基地などから零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の写真や市の特産品などが贈られた。神野さんは「突然で驚いた。海自機の操縦席を体感できるので息子は楽しんでます」と話していた。
同基地からは旧海軍時代、908人の特攻隊員が出撃した。1993年に開設した史料館には隊員の遺影や遺書、復元されたゼロ戦などが展示されているほか、海上自衛隊の活動が紹介されている。
同館の松永幸雄館長によると、特攻隊員をテーマにした小説「永遠の0」やゼロ戦の設計者が主人公の映画「風立ちぬ」の公開で「史料館への注目度が上がっている」と話し、「展示物を通じて過去を知り、未来を考えてほしい」と来場を呼びかけた。
=2013/08/02付 西日本新聞朝刊=
「仏壇のまち」川辺町
●西暦1200年代に川辺仏壇の技術や技法が確立
鹿児島県南九州市川辺町が全国的にも珍しい“仏壇のまち”となったのは,古くから仏教が盛んだったことと深い関わりを持つ。その歴史は古く,1100年から1300年にかけて,この地方一帯を治めた平家一門の豪族,河辺氏と壇ノ浦の戦いで敗れて下野した平家の残党が,川辺町の岸壁(清水の岸壁)に磨崖仏を彫ったことに始まる。
1200年には河辺氏が菩提寺宝光院を建立したが,川辺仏壇の技術や技法が確立したのもこのころである。また,清水の岸壁には鎌倉や室町,明治の各時代に供養塔や仏像,字などが増えていった。高さ15b,長さ500bにわたり約200基が彫られた「清水磨崖仏群」は,規模の大きさや仏教的価値の高さから,1959年に県の指定文化財に指定された。
仏壇に関しては,古いものは「延元元年九月六日」(1336年)と記された漆塗りの位牌がある。だが,技術や技法が800年以上も前から継承されている割に,古い仏壇や仏像は残っていない。それは,島津藩による一向宗の禁制(1579年),明治初期の廃仏(明治維新後に起こった仏教の排斥運動)による。
その間も川辺地方では文字通り命がけの信仰が続けられた。洞窟の中で念仏を唱える「隠れ念仏」によって,見かけはタンスで観音開きの扉が付いた小型の仏壇という現在の原型が生まれた。その後,1876年9月に宗教の自由が認められ,初めて公然″と仏壇が作られるようになった。
名称登録でブランド強化
川辺町では,大正時代から昭和の初期にかけて仏壇業者が急増した。併せて,木地,宮殿(くうでん),彫刻,金具,塗り,仕上げの7つの工程で製作する分業制が生まれた。仏壇産業はほとんどが手作業であったた塑雇用量も比較的多く,小資本での独立開業ができるという利点も同産業の拡大につながった。さらに需要も安定していたことから,業者数は増加の一途をたどった。
かつて川辺町の主要産業は農業と仏壇業であった。しかし,仏壇の生産額はピーク時の94年が約117億円だったのに対して,農業粗生産額は9億円と2桁違った。全町民の10人に1人が仏壇製造に携わっており「仏壇で経済が回っていた」という表現は決して大げさではなかった。
しかし「94年ころから完成品の輸入が増え始め低価格化が進み,各地で仏壇産業の空洞化が顕著となり始めた,川辺町も例外ではなく,2010年の生産本数はピーク時の1割以下,生産額は7%程度と大きく減少している。
現在の仏壇の需要傾向は,低価格・大量生産型と高価格・高品質型に二極化している。川辺仏壇が目指すのは後者の高価格・高品質型である。07年には町内で加工された材料を使用し,町内で製造・生産された製品だけを「川辺仏壇」と表示する名称登録を行った。地域ブランドの適正な保護と競争力の強化,事業者の信用の維持などを図っている。また,工法の特徴である分業制は近年,生産量が少なかったり品質の高い部品が作れない他の仏壇産地からの注文の増加により幅広い技術の受注にもつながっている。
川辺仏壇は,国内の仏壇産業を守る最後の牙城でもある。
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