葉隠れの精神が根付く
2018年9月1日現在の推定人口: 819,312人,世帯数: 310,144世帯 。
佐賀県は九州の北西部に位置し,東は福岡県,西は長崎県に接し,北は玄界灘,南は有明海に面しています。朝鮮半島までは約200キロメートル足らずと近接しており,大陸文化の窓口として歴史的,文化的に重要な役割を果たしてきました。
佐賀県の面積は,約2,400平方キロメートル,県庁所在地の佐賀市,唐津市,鳥栖市など10市10町で構成されています。2018年9月1日現在の推定人口は819,312人,世帯数310,144世帯です。
佐賀県の気候は,佐賀県の気候は、年間の平均気温が16度前後の地域が多く、穏やかな気候です。佐賀県の降水量は、東の脊振山から西の国見山にかけての山あいで多く、1年間に2500ミリメートル以上降っています。
一方、北部の玄界灘近くや南部の佐賀平野は雨が少なく、1年間に1800ミリメートル程度です。年間の平均気温が16度前後の地域が多く,穏やかで温暖です。降水量は,東の脊振山から西の国見山にかけての山あいで多く,1年間の降水量は,2500ミリメートル余です。 一方,北部の玄界灘近くや南部の佐賀平野は雨が少なく,1年間の降水量は,1800ミリメートル程度です。
「佐賀」の由来は,「日本武尊が巡幸の際に,楠樹の栄え繁る有様を見て,この国を『栄の国』と呼ぶがよかろう」と言われたとの事に由来します。
藩制時には,佐賀,蓮池,小城,鹿島,唐津,厳原(いづはら)の6藩に分かれて統治されていましたが,明治4年7月の廃藩置県によって統合され県と改称されました。
鎖国をしていた江戸時代,出島のある長崎に隣接していた佐賀藩は列強の情報をいち早く入手できたこともあって,佐賀藩は幕末から明治維新に至る時期において,欧米の先進技術を最も蓄積し,幕府,薩摩を圧倒。激動期の主役でありました。鉄を精錬する反射炉,動力を得る蒸気機関など,明治の近代化を支えた技術の先駆者は,佐賀藩でした。
特に,新政府軍として従軍した際は西洋式の撥水性と機能性の高い全身装備を纏い,自藩で精錬した鉄製の砲身を持つアームストロング砲を用いて精強と名高かった彰義隊をほぼ壊滅させたことは,近代戦への移行を告げる転換点と言えます。
県民性
佐賀県には,鍋島藩時代の影響から,独自の倫理観がいまも残る。樋口清之氏は著書『出身県別日本人の行動と性格パターン』で,「鍋島藩の論語といわれる『葉隠』で知られているため,武骨一点張りのように誤解されているが,全体としては社会性に優れ,政治家としても,商人としても成功する素地をもっていると思う。それは特に責任感が強い『根性もん』が多いからである」と分析している。
厳密には,鍋島藩の領地であった南部の佐賀地域に比べ,小笠原藩が治めていた北部の唐津は,博多の影響を受け,「陽気で豪快」と,ややは南部とは肌合いを異にする。
佐賀は,“先駆的”な県である。日本の稲作は佐賀を起源とする。さらに日本の陶磁器の発祥の地でもある。
鍋島氏は徳川250年の歴史を通じて転封,改易もなく,一貫して肥前の領主であった。地方に興った武将で,徳川初期から幕末まで同じ国を支配し得たものは九州では鹿児島の島津氏と佐賀の鍋島氏だけである。保守的ともいわれる佐賀人の気質は,この長い鍋島藩政によるものではなかろうか。
徳川の参勤交代時代のことであろう,信州路の宿場に,次のような戯れ歌が残っていたという。
「人の悪いのは鍋島,薩摩 日暮れ六ツ泊りの七ツ立ち」
午後6時に泊まり,翌朝午前4時の早出発,鍋島藩のミミッチさを歌ったものである。 (出典:長野県観光連盟編 信州歴史の旅 令文社刊)
出典:『探訪日本の歴史街道』三修社刊 p87
中山道は江戸日本橋を起点に、板橋を最初の宿場として、東海道と重複する草津、大津の二宿を加えて、京都三条に至る肝に全部で69宿あり、旅程は135里34町八間(約533.9キロ) であった。
古代七道の一つとして生まれた中山道は、もとは東山道と呼ばれた。『続日本紀』に和銅6年(713)、美濃(岐阜県)と信濃(長野県) の国境の難所をさけるために木曾路が開かれたとある。中山道は戦国時代まで東山道と呼ばれ、江戸幕府が制定した宿駅の多くは、戦国末期にすでに成立していた。
中山道の近世の宿駅制は慶長六年(1601)に、大久保長安が木曾路の集落に伝馬掟状(でんまおきてじょう)を出したことにはじまった。その道が整うにしたがい、一部ルートの変更がなされ、新たな宿場も誕生した。
当初は下諏訪から三沢峠、小野峠、があったが、慶長19年(1614)牛首峠を越えて、木曾の賛川に出ていた。この間に小野宿にこの道は廃され、塩尻峠越えに変更となり、塩尻、洗馬(せば),本山の三宿ができた。
また江戸から十一番目の宿場である新町は、享保9年(1724) にできた最も新しい宿場だった。これも本庄宿と倉賀野宿の間のルート変更があり、当初は落合新宿と笛木新宿に伝馬役が命じられた。その二つの宿場が合併し、中山道は六十九宿となった。
「木曾にかけはし、太田に渡し、碓氷峠がなくばよい」と俗謡に歌われるように、中山道の難所は、碓氷峠に代表される、その峠の多さと、木曾川の流れがつくり出した深い山谷の苦労に尽きる。
「佐賀人が通ったあとには草も生えない」とは,貧乏性でムダ遣いを嫌う佐賀県人を揶揄した言葉である。
同時に佐賀は,「武士道とは死ぬことと見つけたり」と精神論をといた「葉隠(はがくれ)」の本場である。「佐賀には何もなか(ない)」と自嘲するのが佐賀県人気質。これは,頑固一徹,几帳面で融通が利かさを物語る。
北部(唐津,伊万里など)や東部の鳥栖などは明るく,物わかりのよい人が多い。口下手だから愛情表現は苦手だが,意外と情熱的。
女性は,「佐賀美人」の言葉通り,魅力的な人が多い。おとなしそうに見えても,しっかりもので辛抱強い。
西日本新聞 九州データ・ブック2012デジタル | 稲盛和夫 生き方 | ||
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地域区分
●県庁所在地-佐賀市(さがし)
佐賀県の東部に位置し,鍋島36万石の城下町として栄えた佐賀。佐賀市は,竜造寺一族の居館を中心に発達した町で,竜造寺の跡を継いで肥前の国の藩主におさまった鍋島直茂が作った町である。2006(平成18年7月末日)の人口206,967人,世帯数
79,339世帯 。
佐賀市は,佐賀県の県庁所在地で,佐賀県の経済・行政の中心地である。人口減に対し,周辺新市域の人口増が目だち,ドーナツ 型構造の土地であるが,大和,富士の3町および三瀬村を合併,市域は南にも広がり,431.42平方キロメートルとなり,唐津市に次ぐ 2番目に大きな面積を有する自治体となった。北半分は,北部九
州を東西に貫く筑紫山地に属する佐賀平野があり起伏が大きい土地であるが,西部は脊振山地であり,山がちで起伏がほとんどない低平な地域で対照的である。
佐賀地方:佐賀市を中心とする佐賀平野には,潅漑用の堀(クリーク)が網の目のように張り巡らされている。佐賀市は,これらクリークを利用して作られた町である。佐賀市は,道路事情の悪さと郊外への大型店の出店などによる中心部の商業の地盤沈下といった問題を抱えている。交通,道路を中心としたインフラ整備と商業活性化が,当面する課題である。
佐賀県立博物館・佐賀県立美術館
佐賀県立博物館
佐賀県立博物館は、昭和45年に明治百年記念事業として開館以来、「自然史」、「考古」、「歴史」、「美術」、「工芸」、「民俗」の各分野にわたり、収集してきた資料を調査・研究し、これら各部門の数多くの資料を常設展「佐賀県の歴史と文化」の中で展示・紹介している。
佐賀県立美術館
佐賀県立美術館は、昭和58年に県政100年記念事業として博物館に隣接して開館した。主に佐賀県にゆかりのある近・現代の「絵画」、「彫刻」、「工芸」、「書」などの資料を収集し、それらの調査・研究と展示、紹介している。
・開館時間: 博物館 9時30分〜18時 , 美術館展示室 9時30分〜18時
・休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日のときは翌日)。 12月29日〜31日は、年末のため全館休館。
・住所:〒840-0041 佐賀市城内1-15-23
・電話:0952-24-3947 ファックス:0952-25-7006
メールアドレス:hakubutsukan-bijutsukan@pref.saga.lg.jp
佐賀城本丸歴史館は、日本の近代化に貢献した「幕末・維新期の佐賀」の輝かしい時代を紹介。.日本の幕末・維新期において地元佐賀がどのように関わっていたかを分かりやすく伝えるために、実物・複製による展示、写真・映像機器・情報機器による解説、手で触れ楽しみながら学習できる資料などを展示しいる。
・住所: 〒840-0041 佐賀市城内2-18-1
・徒歩:JR佐賀駅の南口から県庁方面へ直進。「栄城橋」信号を左折すると右手に駐車場が見えるので,そこから入る。時間は約25分。
・バス:佐賀駅バスセンターの3番のりばから【6】佐賀城跡線に乗車、約10分。佐賀城跡バス停で下車。
・タクシー:佐賀駅からタクシーで約10分。
●佐賀県の大学 |
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佐賀県の将来性
有田焼,佐賀牛,佐賀の海苔,呼子のイカ,さがほのかというイチゴ,それから吉野ヶ里遺跡,......。佐賀には魅力的な資源がたくさんあります。そこに付加価値をつけて磨きをかければ,魅力は増すはずです。
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●新規就農者−3年連続で増加
佐賀県の集計によると,2011年6月から12年5月まで1年間の佐賀県内の新規就農者数は前年比35人増の186人で、平成に入って最も多かった。ここ3年は年間150人を超える高水準が続いており、08年のリーマンショック以降、農業が雇用の受け皿として定着している。
新規就農者のうち、65歳未満で年間150日以上農業に従事した人を県が集計した。内訳は、農家出身者で他の職業に従事した後に就農する「Uターン」が88人(前年比14人増)、「新規参入」が80人(同18人増)、農家出身者による「新規学卒」が18人(同3人増)。新規参入のうち、法人への就業が53人(同20人増)を占めた。
Uターンでは21〜35歳、56〜60歳に加え、36〜40歳が前年の2人から13人に増加。販売が好調なタマネギと、米麦の複合経営に取り組むケースが目立った。新規参入では、法人就業の53人のうち国の助成制度を活用した農業法人による雇用が35人にのぼった。
全体の平均年齢は36.8歳で、前年から3.3歳上昇した。地域別では,タマネギの栽培が盛んな杵島地区が前年比30人増の71人。畜産分野の農業法人が規模を拡大した三神地区も11人から24人に増えた。
●佐賀市−えびす像の数日本一
豊漁の神,商売繁盛の神などで知られるえびすさま。佐賀市内では街中至る所にえびすの石造が置かれており,昨年の調査で総数775体と確 認された。各分野の日本一を登録している「日本一ネット」から「えびすの数日本一」の認定を受け,市民グループなどがまちおこしに役立てようと取
り組んでいる。
えびす像の数を調べた市民団体「恵比須(えびす)DEまちづくりネットワーク」によると,像は市の南部地域に集中しており,「よその町で は神社や店先など
限られた場所にまつられているが,佐賀では街角や一般道など日常的な場所にあるのが特徴」という。子どもを抱いた「子 育て恵比須」,2 体が手をつないでいる「仲良し恵比須」などユニークな像も多い。
なぜ佐賀市にえびす像が多いのか。旧鍋島藩主が兵庫県の西宮神社からえび す像を譲り受けてまつったのを見て,周辺住民にも広まったというのが通説。さらに,商人や武士が往来した長崎街道沿いで旅の安全を祈願し
た,有明海の猟師 や海運業者が商売繁盛を願った,などの説もある。
九州駅弁グランプリ −佐賀勢 1,2位を占める
日本全国47都道府県の名産品をご紹介する【まち楽】
焼き物の産地が,九州に集中している理由
陶磁器の名産地は,中部から西日本に多い。その理由は、日本の都が奈良、京都、大阪など西日本に築かれ、その地を中心に文化が発展してきたからというのも一理あるが、特に九州に集中したのは豊臣秀吉が大きく関係している。
北条氏を倒して天下を統一した秀吉は、やがてアジアの覇者を夢見て朝鮮半島に出兵する。これが「文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役えき」(1592〜1598年)である。この戦のため、朝鮮半島に近い中国・九州地方の諸大名が集められ派兵された。
当時の朝鮮は李朝が統一し、豊かな朝鮮文化を築いていた時期である。秀吉の死とともにこの戦は終わるが、その際、諸大名が多くの朝鮮の陶工を日本に連れ帰った。
桃山時代は優雅な文化が生まれた時代でもある。その筆頭は茶道であり、茶道具としての陶器の人気も高まっていた。そこで大名たちは競って朝鮮の陶工を確保して自分の領地に連れて帰り、窯を持たせて陶器を焼かせたのである。それゆえ、「文禄・慶長の役」を別名「焼き物戦争」とも呼ばれる。
特に佐賀の地に連れてこられ、後に帰化した朝鮮の陶工・李参平が有田川の上流で白磁用の原料を発見して始めた「有田焼」(伊万里焼)は、日本における最初の磁器(白色で吸水性のない焼き物)として有名である。
この朝鮮陶工がもたらしたものに「蹴ろくろ」(足で蹴り回転するろくろ)と、「連房式登り窯」(斜面に連なる形式の窯)がある。これらの技術は、日本の陶磁器の発展に大きく貢献した。
なお、瀬戸、常滑、越前、信楽、丹波立杭(たんばたちくい)、備前の焼き物については日本古来の手法を引き継いでおり、朝鮮の影響を一切受けていないことから「六古窯(ろっこよう)」と呼ばれている。