福祉は舞台芸術になれるか  小堀俊二

生活の中の繰り返し

 今は自分の子となった利用者を施設でかくまい泊り込んでいた頃のことです。それを止めさせようとする役所とのすったもんだも疲れましたが、もう一つ大変だったのは生活支援そのものです。生活のことを「食べる」と表現しますが、文字通り先ず必要なのは食事です。休日など、朝ごはんを作り、数時間すると昼ごはん、驚いたことに更に数時間するなら夕ご飯を作らなければなりません。勿論後片付けだって毎回必要です。何が大変か、それは食事の準備には終わりがないということです。
 生活を支えることは繰り返すことだと知りました。私はそれまで、仕事とは一つ一つのステップを成し遂げることだと思っていましたが、全く方向性が異なっていたのです。

  繰り返しの幸せ

 最近、やけに時間が早く過ぎるなと感じます。風呂場で利用者の髪を洗いながら、「あれ、さっき洗ったと思ったら、もう一日経ったっけ」という感じです。子どもの頃は物凄く長かった一年が、今はまるで一週間ぐらいに感じます。子どもの頃は何をするにも初めてだったけれど、今は既に身についたことの繰り返しで、何かに追われるかのようなペースで回転します。
 多くの人が「あの頃に戻れたら」と言います。時間を逆回しして人生をやり直せたらと思う気持ち。実はそれを私は全く持ちません。仮に出来るとしてもきっぱりと断ります。それは、何をするにも初めてである緊張感に耐えられないからです。だから、今の繰り返しの生活は、やっとたどり着いたオアシスです。多少時間のスピードが速くたって構いません。十分に満足です。

福祉は舞台芸術になれるか

 ホミニス学園に勤務していた頃、職員達に「壁の向こうに千人の客がいると思え」と繰り返し言いました。利用者との学びの形をした即興劇を目指していたのです。
 混沌から始まり、少しづつ意味合いが見え隠れし、ハプニングが緊張と笑いを誘い、観客を交えた大合唱と祈りで終わります。そして出演者も観客も、舞台の余韻、夢と希望、癒しの雰囲気にたっぷりと浸ります。絵画だって音楽だって数字や文字の勉強だってなんだって構いません。生産的能力のかけらもない利用者が多くの人を幸せにする、こんな大逆転を実現したかったのです。
 そのために、いつも神経を張り詰めて授業に臨み、職員研修は厳しさを極め、結果的には実際に舞台に乗るチャンスは与えられませんでした。あれで良かったのか悪かったのか。実は今でも良く分かりません。ただ、その頃は、即興を重んじるあまりに、定型化されたものや繰り返しをひたすら避けていたのは事実です。

即興は万能じゃない

 ジャズミュージシャンの性でしょうか。即興こそ最も美しいと信じていました。整った演奏は全く望めない利用者と音楽を成立させるには、言い換えると反社会的な行為を肯定的に受け止めるには、それしか方法が見つかりませんでした。その場での会話、やり取り、生き生きとした雰囲気。時に喧嘩のように、時には平和で厳かな大合唱のように、時にはユーモラスに。皆が幸せになるための唯一の方法と信じ、生活全体が即興演奏のようであろうとしました。
 音楽だって生活だって小奇麗に整っているより、多少形はいびつでも皆が生き生きとして幸せな気持ちを共有することの方が大切です。ちょっとしたハプニングだって、肯定的に受け止めれば推進力に生まれ変わります。
 ただ、最近になり、即興演奏のようにいつも集中力を切らさないでいることは、不自然だと気づきました。緊張感と不安感は紙一重だからです。自然な日常生活には、もう少し緊張の度合いを下げ、繰り返しの比重を高めた方が良いかなと思い始めました。

良いものは定型でも新鮮

 どうやったらある程度の意味性を持った演奏が出来るのか。それをアシスタントがいなくても実現する方法。つまり私が一人きりで、利用者と一緒に美しい、少なくとも聴く人が不快ではない演奏をする。これを目指したことが、繰り返しというキーワードとの出会いでした。
 どっちに流れるか分からない演奏に比べ、ある程度構成を決めたメドレー形式の演奏は、利用者にとっても分かりやすく、滅茶苦茶になりにくいから指導する側も気持ちが楽です。毎回同じ曲で即興演奏は減りましたが、思ったほど窮屈にも退屈にもならなかったのは驚きでした。即興というスタイルに囚われないことが逆に自由で気楽な感じすらしたのは、恐らく利用者も同じだったと思います。
 天にまします我らの父よ、で始まる文言を聞いたことはありますか。これは「主の祈り」という、イエスキリストが示した、祈りのお手本です。定型化されたこの祈りは二千年間継承されています。信仰のツボをついたような祈りは、マンネリどころか、毎日信仰者を励まし、道を正し、私たちを解き放ち続けます。
 定型であろうと不定形であろうと、良いものは良いし繰り返したって毎回新鮮であり続けるのです。

繰り返しの日々のある出来事

 最も強烈な繰り返し、それは利用者の行動障害です。反社会性が強ければ強いほど、繰り返しは際立ちます。私の娘は強度のチック症ですが、そのチック(殆どは大声)は周囲を絶望に陥れます。特に長い間それを聴き続けた私は、「傷ついた脳の表面のかさぶたが剥がされ血がにじむ」感じがします。
 ところが、その大声の聞こえ方が全く変わる出来事がありました。
 私は突然鬱になります。自分の愚かさに我慢ならなくなります。子どもの頃からの辛かった思い出が次から次へと思い出され、自分の心に向かって「黙れ、うるさい」と叫びます。そのときも猛烈な勢いで忌まわしい記憶があふれ出していましたが、現実の世界から娘の大声が響き始めました。するとどうでしょう。娘の声が私の心のものを一つ一つ吹き飛ばしてくれるのです。冷たい木枯らしが吹く冷え切った心に突然暖かい春風が吹き込んだようでした。普段は聞くに堪えない大声に、優しく癒し励まされるという、信じられないような経験でした。
 今でも娘の大声は苦手であることには変わりませんが、毎日一緒に暮らしていると、意図せずとも、何か示唆を含んだような出来事が時にはあるのだと思いました。

新しい舞台で

 障害者との学びの場面を舞台芸術に昇華させる夢はとうとう叶いませんでした。即興は影を潜め今はひたすら繰り返しの日々を送っています。矢のように時は過ぎていくので、多分このままで人生の終盤を迎えるのかなと思っています。ただ、そんな繰り返しの中にだって新鮮な感動はあります。
 ある日、将来私が自分でお風呂やトイレに入れなくなったときのことを利用者と話しました。彼らは力を合わせて私の手伝いをしてくれるそうです。
 劇場だけが舞台ではありません。生活そのものの一瞬一瞬を大切にし、あまり背伸びをせずマイペースで生きていければ、それは利用者にとっても私にとっても、とても幸せなことです。そんな私たちを公園かどこかで見た人が、何かを感じてくれたら尚更幸せだし、この繰り返しの日々を、あたかもぐるぐる回る渦巻きが徐々に小さくなり、最後には点に帰するように、もっともっと小さな存在になるように歩もうと思います。これを神様はきっと喜んで下さると思います。

5タラントの会