何も持たない自由  小堀俊二

1 はじめに

 ホミニス学園の終りが見え始めて来た、まだ新しい事業が計画段階だった頃のことです。私達はこれからどうしようかと話し合っていました。そんなある日、一人の利用者が言いました。
 「公園で音楽するんだよ」

2 ホミニス学園から現在の事業に移って

 私の毎朝の楽しみは新聞の折り込み広告です。楽しい絵柄は寝起きの頭でも楽しめるし、ホームセンターの安売りなら日曜大工が趣味の私には尚更です。新聞も読みますが流し読みで、とにかく気楽な朝を楽しみます。これはホミニス学園に勤めている頃には考えられなかったことです。行政の動向が気になって仕方なかったし、自分の思考力と知識を高めることに必死で広告など目に入りません。知恵熱を出し続け十年が過ぎました。
 ホミニス学園から現在の個人事業へ移って、身も心も解放された気持ちです。つまらない法律を気にすることも無いし、必要な仕事に絞って働けるから無駄なストレスがありません。会議のための会議、書類のための書類、研修のための研修、もう懲り懲りです。
 しかし、良いことばかりではありません。事業を始めてから知りました。福祉目的ではあっても外から見れば営利事業である私達は、例えば公民館などの場所を借りること等の公的な支援が一切受けられないのです。
 ホミニス学園は私達にとって、建物は聖地であったし、社会的には社会福祉法人としての特権がありました。でもそれらはもうありません。
 自由を手に入れた開放感と喪失感。その両極を同時に味わいながら、私達の事業はスタートしました。

3 無いのも悪くない

 何も持たないと生活が自然な流れを持つようになります。建物を持たないから公園で神を賛美し、雨ならばデパートを散策する。寒ければ歩いて身体を温め、お腹が減った頃に御飯を食べる、その日の終りには感謝の祈りをする、という風に自然な文脈が流れるのです。最近は公園で野宿する方に出会い、週に一度見舞っています。このような深い社会経験は所謂福祉施設ではあり得ません。
 建物もお金もないからこそ、このような豊かな学びになったのは、例えば先進国が失った人間らしい暮らしが、物質的には貧しい国々に残っているのにも似ています。
 確かに施設を閉じて多くのものを失いましたが、精神性は何も欠けないばかりか、この道程を経て足腰が強められました。本当に大切なものがはっきりと見えてくるのです。
 新しい事業になり1年が過ぎた今、私達は新しいテーマを定めました。それは、皆で声に出してお祈りをすることです。短く分かりやすい言葉で、神様のため、困窮する人たち、そして自分達の為に祈ります。願いと感謝を一日に何度も祈ります。これも自然な文脈の中で生まれたことです。

4 一律主義の批判

 公的な社会福祉事業の全てが悪いわけではないし、国が国民の生活の質を最低保証するという目的からするなら、まあ妥当な方法ではあるものの、やや規則が多すぎるかなと思います。というより、施設の運営や支援の実施、支援費の支払いなどの基準とその運用が、一律的過ぎるのです。そもそも一律ではない地域の実情や個々の利用者のニードに規則を無理矢理当てはめ、更には実務権限を持つ自治体職員がその規則の目的や思想を理解していないから、事態は更に深刻です。もっと利用者の声、現場職員の声が大切に受け止められ、監督権者(つまり自治体)が思慮深く柔軟な姿勢を持つなら、利用者の利益に繋がるし、国費の破たんなどという大失態は避けられたはずです。現在の制度上であっても、その運用次第では効率の良い良質なサービス提供が可能だと思いますが、神奈川県だけのことかも知れませんが、行政の体質がそれを赦さないことは大変残念です。
 福祉従事者の給与など処遇面が取りざたされることも多いですが、私はここにも柔軟な考えが必要だと思います。私の収入はホミニス学園時代に比べ4分の1になりましたが、特に不便を感じません。実家に住み家賃がかからないし光熱費すら入れていません。5タラントの授業の殆どは音楽か絵画ですが、それらは殆ど経費がかかりません。だから低額でサービス提供が可能だし、私の生活も十分に成り立っています。働いた量だけ収入を得るのは当たり前のことかも知れませんが、逆に、そこにこだわるならば、全てが損得勘定のみに均衡するだけのことであり、情の通わない寒々しいことと言えるのではないでしょうか。
 私は、善意ある個人ひとそれぞれが、法律や制度に縛られることなく、それぞれの持ち物に合わせて活動すれば良いと思います。私の知る限り、エネルギーと暇を持て余している若い音楽家は、地域に大勢います。そのような人たちが、社会福祉に触れ、新たな価値観に接するなら素晴らしい事だし、驚異的な低コストが実現するはずです。

5 良く見たらあったもの

 私達の活動は音楽を用いて神を賛美することです。私達はそれ以外には何も出来ませんし、出来ないことがかえって神様からのミッションとして感じられます。
 そして、その実践は極めて牧歌的かつ楽観的です。何か物質的な結果を残す必要はないし、建物を持たないから管理経費も要らないから気楽そのものです。そして、更にそれを後押ししてくれるものもあります。
 例えば、毎日利用するファミリーレストランのコストパフォーマンスは施設の給食とは比較の対象にならない程で、利用者にも大好評です。また、この事業用に購入した自動車はシートが3列の大勢乗れる小型車で、一昔前にはこのようなタイプはありませんでした。私の家の車庫にギリギリで入るこのモデルがなければ事業は出来なかったでしょう。
 このような、時代背景とでもいうのでしょうか、廻りを見渡すと福祉目的に利用できるものが、新しく次々と生まれているのです。これらを自由に用いることができるのは、規則に縛られた社会施設にはない、私達だけの特権です。

6 本当の自由

 もしも隣に困窮している人がいたら、今ある物を用いてその人を助けてあげましょう。何を持っているかを気にする必要はありません。そればかりか、持っていない事すら新しい力になります。
 私の事業の利用者は障害と共に生きる得手不得手の激しい人たちです。能力からすると持っていないことの方が大きいでしょう。しかし、その人たちから私は多くのことを日々学んでいまし、共に創り出す音楽は「天に積む宝」です。
 誰もが、所有することへのこだわりを捨て、その時に持ち合わせているものを困窮する隣人のために活用するなら、想像もしなかった新しいものを手に入れることができるのです。

7 おわりに

 聖書にこんな話しがあります。神殿のさい銭箱に、沢山のお金を入れた裕福な人と少しのお金を入れた貧しい人がいました。それを見たイエスキリストは貧しい人を賞賛します。捧げたお金はその人の全財産だったからです。
 私は、貧しく何も持たないが故に本当に頼るべきものが、その人には見えたのだと思います。裕福な人は目を惑わすものを沢山持っていたのでしょう。
 私達の活動が、このような目を持って利用者から選ばれたものであるなら、本当に嬉しい事だし、自らも同じように大切なものを見失わないで歩む道程でありたいと思います。

5タラントの会