ヨブ記から学ぶ ホミニス学園 学園長 小堀俊二

(社会福祉法人ホミニス会発行 あゆみの跡 第32号 '05年11月1日発行より)


  聖書

 わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。(ヨブ記38章4節)



1 心のスイッチ

 ハリウッドのアクション映画を見ていて、一つのルールがあると思います。悪者がやっつけられる前には、とんでもない残虐な犯罪を犯し、観客に「こいつはやっつけられても仕方ないやつだ」と印象づけるのです。クライマックスの戦闘シーンで、観客が主人公を応援するには、その直前までに「盗人にも五分の魂」というような寛容さのスイッチをオフに切り換えておかなければなりません。
 2001年9月11日のアフガニスタンのテロ組織アルカイダによる大規模テロに関する新聞報道を見ていた時のことです。様々な角度からなされる報道の中で私を捕らえたのは、アフガニスタンが強国に翻弄され、更に世界から見放された国であったことです。そして自らの主義の絶対化がアメリカへのテロリズムとして具現化されました。ある瞬間、私の頭の中で、アフガニスタンの置かれた境遇と、私達ホミニス学園とが重なりあいました。利用者の為にベストを尽くして支援をしても利用者以外にそれを理解する人はいません。本人の人権、思想の多様性を訴え続ける私達は、保護者からも行政からも「問題施設」として扱われ、 更に、県や市の福祉行政、養護学校、民間法人の癒着構造が追い討ちをかけます。施設経営は破たん寸前まで追い詰められました。
 私達が被害者意識を抱くのは当然かも知れません。ただ、それ以上に私達職員の感情が、どこか歪み始めていました。危機感が煽るおかしな一体感、意図的に視野を狭めようとするような卑屈な心が、陶酔感を伴いながら私達を蝕んでいきました。何かがおかしい、と気付きながらも、一度切り替わったスイッチは中々元には戻りません。かろうじて出来たことは「全ては神様が決めることだから、安心してお任せしよう」と確認し合うことでした。

2 うるさ静か

 障害者からこそ学ぼうという私達のスローガンは、言葉は大変美しいのですが、その現場は戦場さながらです。鼓膜がしびれてくるほどの大声、突発的な暴力、不衛生による異臭、等々。誤解を恐れずに言うならば、障害者施設である限りそれらの問題は決してなくなりません。明日も明後日も確実に続きます。私はそのストレスに我慢出来なくなると、心のスイッチを切り替えます。心と身体の導通を切り離して、時が過ぎるのを待ちます。それでも我慢出来ない時は、自分の人格を捨てます。そして自分の頬を力一杯拳で叩きます。痛みの感覚がなくなってきたら、今度は腕を噛みます。そうすると、ほんの少しだけ楽になれます。
 技術論はもう要りません。例えば、相手の話しを良く聴くことが正しいと分かってはいても、それを実際に行うのは容易なことではありません。忍耐強いこと、寛容であること、自己犠牲をいとわないこと、全て同じです。生身の人は弱いのです。
 しかし仮に、絶望的な騒がしさの中でも魂が平静であったならば、どんなに幸せでしょう。どんなに自由になれるでしょう。福祉施設業務に身を投じている私達の、決して悲観的自己犠牲観ではない、奉仕のあり方への一筋の望み。これに私達は「うるさ静か」とキャッチフレーズを付けたのでした。

3 人生の旅路

 私はここ2年程、ホミニス学園の建物に寝泊まりをしています。それは夜間の支援を非公式に行っているからです。自宅へは一日に数時間戻りますが、その他は施設に詰めています。医務室の白い壁に囲まれて寝るのも大分慣れましたが、それでも疲労は積もります。特にプライバシーが保たれないこと、つまり、自分だけのスペースがなかったり、何時誰が来るか分からないことには、恐怖感すら覚えます。
 私は疲れ果てると大抵パソコンの前から動き出すことが出来なくなります。インターネットで外と繋がっている感触が途絶えるのが恐いのかも知れません。寒くてもヒーターに手が伸ばすことができませんし、トイレすら我慢することもあります。何より一人で床に着くのが恐くなります。
 いつの夜だったか、やっとの決意で医務室のベッドに移ることが出来た時に、ふっとこぼれた「やっとここまで来た」という言葉に、自分で驚きました。その時の感覚はまるで険しい山をやっと上り終えた、否、夕闇の中にやっと見つけた宿に辿り着いたというものでした。
 人生は旅路なのだと実感しました。仮に同じ場所でうずくまるしかなくても、時という道程を歩んでいます。
 私達は一体何処に向かって歩んでいるのでしょう。

4 ヨブ記

 ヨブは正しい人であったにも関わらず、神とサタンの悪戯にも似た理不尽な仕打ちにより、苦難に陥れられます。初めはそれを受け入れていたヨブも、この世に生を受けたことを呪い、その仕打ちをした神に、自らの正しさを叫び、応答を求めます。友人達の慰めや諭しの言葉もヨブには届きません。
 そのヨブに対して、神は自らが創造主であることを告げ、ヨブからの訴え即ち不条理さについては答えず、ただ「堂々としていなさい」と語ります。神に出会ったヨブは再び悔い改め、最後には元以上の祝福を受けます。

5 自己犠牲

 「仕事は辛いし、外からは悪口言われ放題。生きていくことは辛いなあ。」と楽観的に笑っているうちは問題ありません。しかし、ある時、スイッチは切り替わります。
 突然訪れる絶望と孤独感。一人っきりで八方塞がりでお先真っ暗だと悲観し、どうせ何をやってもダメだと主体性を放棄します。しかし、聖書には全ては神の手の平の上の出来事であると書かれています。私達に神から用意された困難に立ち向かうとき、本当に戦われるのは神ご自身であり、私達はただその場に身を投じ、目の前の出来事に真摯に向き合うことが求められています。そして、神は被造物である私達が主体性を捨て卑屈になることを喜ばれません。
 自己犠牲とは、陥った自らの辛い状況を悲観するのではなく、神が用意した奉仕の場に自ら進んで歩み寄り、そして最終的な勝利と平安を予め確信して、与えられた奉仕を行うことではないかと思います。決して諦めからではなく、安心して主体的に自らを神に捧げること。ここに人生の旅路の行き先、その歩みを支える魂の糧、本当の自由を私達は見い出しました。

6 新たな視野

 聖書は私達に問題の解決の方法ではなく、如何に悩み、忍耐するかを指し示しています。私達は苦難の中にあって、安心して胸を張って忍耐することを学びました。勿論、置かれた過酷な状況は変わることはありませんし、肉体の弱さも同様です。口からは嘆きがこぼれ、疲労から足がふらつくこともあります。
 ただ、自らが変えられていると感じる部分もあります。それは身の回りの出来事をより広い視野から相対的に見ることができるようになったことです。神の支配を知るが故に小さな事に振り回されないのです。
 神は私達を苦難に導かれましたが、その中でしか得られない学びをも用意してくださいました。

参考文献 旧約聖書概説/木田献一/聖文舎  総説旧約聖書/石田友雄 他/日本基督教団出版局

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