利用者中心授業におけるリーダーの働き ホミニス学園 学園長 小堀俊二

(社会福祉法人ホミニス会発行 あゆみの跡 第31号 '04年11月1日発行より)


  聖書

 互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。(ヨハネによる福音書15章17節)

  はじめに

 「昔に帰りたい」。この多くの人が口にする言葉は、歳と共に経験を重ね、生活が定型化してくると同時に、自由な時間は徐々になくなり、体力は少しづつ衰え、社会的責任は重くなっていくという、大雑把に言うと標準的な宿命に因るのだと思います。夢と時間が無限にあり、それらを自分中心にむさぼり追い求めていた時代から、徐々に他者の為に生きていかざるを得なくなるのは、切ないことではありますが仕方のないことだと思います。そんな諦めを自覚しながらも多くの人がこの言葉を言うのを聞きながら、私は「学校時代だけはご免だ」と呟きます。劣等生であった僕は勉強も運動もいわゆる落ちこぼれでしたし、友だちとの関係もあまり楽しい想い出はありません。子どもは大人程理性的でないと同時に、時として大変残酷だからです。学校へはいつも下を向いて通い、授業中は意味が分からないまま時間を過ごす苦痛に懸命に耐え、放課後は急いで家に帰りラジオの音楽番組に没頭していました。
 ホミニス学園で授業の運営を行いながら、頭ではなく身体で私はいつも確認しています。「誰も乗り遅れてはいけない」。乗り遅れた時の、惨めで疎外感に満ちた思いは、利用者に絶対に経験させてはなりません。これはホミニス学園の鉄の掟です。

  中心であること

 どの家庭でも新たな命が誕生すると、「授りもの」として家庭の中心になります。食べて寝て泣き声を上げるだけの存在。でも笑顔など見せようものなら、一瞬にして周囲の大人に幸せを運びます。そして、周囲はその小さな存在に関心を注ぎ、やれ寝返りをうった、這い這いをした、と大騒ぎをします。家庭の中心はその小さな存在です。
 不思議なことに、歳を重ねる毎に、その存在の意味が変わってきます。小学校あたりまではまだ良しとしましょう。それ以降、テストの成績や友だち付き合い、そして成人すると仕事の業績、収入、社会的名誉などが、その存在を肯定的に受け止めてもらえる理由に移り変わっていきます。
 なんという悲劇でしょう。生まれた時は、笑っただけで周囲を幸福にし、いつも中心であったのに、知らない間に自分がその場にいるには条件が付いているのです。条件から外れるならば、少なくとも集団の中心からは外れ、場合によったら集団から出ていかなければならないこともあり得ます。
 この意味からするなら、昔に帰りたい、無条件で家族の中心として受け入れてもらえた時に戻りたい、と思うのは、至極当然の事であります。

  リーダーは必要悪か

 かれこれ数年前に利用者と一緒に近所の公園に行きました。そこには近所の保育園、小学校の子供達が沢山来ていました。私は利用者がいなくならないように見守りながら、学園の中とは違う利用者一人一人の表情にがく然としました。その明るく活き活きした笑顔は、施設の中では見たことはありませんでしたし、更に、その場の子供達と大変自然に関わっていたからです。職員の出番はそこにはありませんでした。私は「これじゃ施設の存在意義はどこにあるんだ?」と自問しながら、施設の存在意義を砂浜に埋もれたコインを探し出すような気持ちで、施設の中でできることの可能性を模索しながらオリジナルのプログラムを創り上げました。それが、現在行われている学習や音楽を中心とした学事です。
 前述の公園での利用者の姿が目に焼き付いている私はつい最近まで、できるならば利用者だけで自主的に活動して欲しいと願っていました。リーダーである職員が指示的にならず、本当に必要なサポートに絞ったならば、利用者の価値観、表現方法が縦横無尽に展開すると思ったからです。
 しかし、それは浅はかな幻想でした。私はある時期、徹底した非指示により授業を継続して行いました。多くの時間を殆ど音楽で伴奏するのみで利用者の主体的表現を待ちました。しかし、そこでは充実した結果を得ることは殆どありませんでした。時には利用者の表現同士がぶつかり合い、意味性に欠け、平和的でなくなることも少なくありません。参加している実感は言うまでもありません。やはり現実的には授業をリードしある程度の枠組みを示したりレールを敷いておくこと、時には事故を防ぐために強制的な関わりも必要なのです。
 更にその試行錯誤の中で、私は自分が驚くべき過ちを犯していることに気付きました。それは、利用者中心にこだわりながら、それを利用者独力による生産的活動を期待するという能力主義思考が、私がもっとも忌み嫌うことであるにも関わらず未だにくすぶり続けていたことです。

  本当の利用者中心授業

 利用者中心を目指す授業とリーダーの存在。この一見相反する関係をどの用に整理して考えたら良いのでしょうか。私達は今年度の初めにうすらぼんやり見えて来た新しい授業観を「一見職員中心だけど、良く見ると途方もなく利用者中心」とキャッチフレーズを付け、事ある毎に確認してきました。
 勿論、授業への参加のあり方として利用者が積極的であることは大変喜ばしいことでありますし、授業の流れの中に利用者の一声が活かされることは、いつも新鮮な空気を保ってくれます。しかし、根源的な利用者中心という意味を捉えなおすなら、生まれたての赤ちゃん中心に家族が動いていく姿に大きなヒントがあると思います。最も無力ですべてを周囲に依存する生産性のかけらもない存在が無条件に家族の中心になる。この事は、人が集団の中心にいるということは、「中心になって何かを行っていく」のではなく、「周囲の関心が中心の人物に集まる」ということを示しています。ホミニス学園の授業においては、参加者それぞれの関心が一人ひとりの利用者に注がれることであり、主体的に何かをするとか、どんな作品を創ったとか、そのようなことではないのです。
 誰もが無条件で関心を持たれ、話しを聴きあい、お互いの痛みを自分のものと感じる生き方。これは、集団を一つの有機体とする考え方にも通じます。

  新たなる展望

 「皆の関心が利用者一人ひとりに向いている」ならば、リーダーは利用者に指示をし、手をとり黒板に線を書き、時には本人の意思に反して行動を制限したとしても、それは原理的に利用者中心授業です。
 とするならば、利用者中心授業におけるリーダーの役目はことさら特別なことではなく、前述の黄金のルール以外は至極常識的かつ状況に合わせた「求められていることをするのみ」です。ホミニス学園の授業で言うなら、プログラムのアイディアを提供し、一人ひとりに目を配り、話しを良く聴き、楽しく豊かな学びの場を創造し、何より無事故でその時間を乗り切ること。オプションとしてその様な価値観や技術を次世代を担う職員に継承していくことも含むでしょうか。私は元々音楽家ですから、一緒に歌ったり楽器の指導をします。学習では文字を書ける人は少ないので、線や図形に旋律をつけたりしながら、楽しい時間が過ごせるようにします。しかし、言わばこれらは方法論あるいは技術レベルの話しであり、根幹ではありません。
 私は最近、指示をしていてもそれが相手を威圧せず、大変平和的に相手に伝わるこつがあるのに気付きました。それは笑顔とユーモアです。このシンプルかつオールマイティなテクニックを携え、本当の意味での利用者中心授業を守り、それを土台にしながら何にも縛られることなく、利用者と共に大空に向けて羽ばたきたいと思います。そしてその空気を皆と共に胸いっぱい味わいたいと思います。


  聖書

 「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。(マタイによる福音書23章10節)

None of you should be called the leader. The Messiah is your only leader. (Matthew 23:10)

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