福祉施設の果たすべき役割  ホミニス学園 学園長 小堀俊二

(社会福祉法人ホミニス会発行 あゆみの跡 第29号 '02年11月1日発行より)

1 施設運営がはらむ非合理

 私は電車に乗るのが大嫌いです。身体と身体が触れあう程のラッシュは気が遠くなる程のストレスを受けます。ただでさえ人込みが苦手ですし、次の駅が来るまで逃げ場が無いという閉息感、また自分で運転しているわけではないことからでしょうか、諦めというか無力感を覚えるのです。でも、なんとか必要に応じて電車を利用することが出来ているのは、「目的」があるからです。出張に行く、誰々のコンサートを見に行く、あるいは我が家に辿り着かなければならない等々、言い換えると「意味」が自分の中に確認できているから、大変なストレスにも我慢が出来ます。
 私達が生活を営む中で、「意味」が分からないことは大変な脅威です。先の例でもしも自分に意味合いがなければ決してそのストレスに耐えることは出来ないでしょう。自分で掘った穴を自分で埋める作業が、その意味の無さから拷問の手段になるというのも納得できます。ところが、社会福祉施設に勤務していると、業務の意味を理解することが非常に難しいことが少なくありません。むしろ、殆ど意味が分からないまま日々流れのままに、施設利用者と共に送っているという方が正しいと思います。
 施設の機能の意味。その捕らえ所の無さの原因は、対人援助という概念が極めて多岐に渡っている仕事(例えば身体的介護、心理的なカウンセリングに類するもの、社会福祉運動、他機関との連絡等)であることや、極度に限られた対人関係により緊張感が保ち辛いこと等も考えられますが、私が最も気になるのは、ホミニス学園に通所している利用者は「何故通っているのか」ということが、限り無く曖昧なことです。
 やや極端な話し方に聞こえるかもしれませんが、事実上通所の決定権を持つ保護者の中で、自分の子どもに生活環境を選ぶ選択能力があると認識している方は、非常に稀です。皮肉な事に能力的に高い利用者の保護者程、その傾向は強いです。何故ならいわゆる健常者と安易に比較してしまい易いからでしょう。むしろ障害が重い方の方が純粋に意志を確認しやすく思われますが、それでも重要な問題になると「話は別」となる事が多い様です。2003年度より廃止される措置制度も大きく関係しているでしょう。何故なら本人の意見よりも専門家の助言により行政処分されることは、当事者が本人の意志を聞かなくても済む口実としても機能していたと思わざるを得ないからです。
 それ故私は、「一体彼らの生活は誰のものなんだ」と時々首をかしげます。

2 非合理を支える無関心

 ホミニス学園では苦情解決の係を設け、利用者は勿論、保護者の方々からの要望や苦情を受け付け、公正で透明性を確保した方法で解決に導くことに努めています。利用者から「園長の大声は止めろ」とか「トイレが臭い」等、本当に説得力のある苦情にはただ頭を垂れるのみの思いと共に、毎月施設だよりにて公表し、できるだけ隠ぺいに繋がらない方向性を持って対応しています。そもそも施設業務の柱でもある「傾聴」と「苦情受理」は概ね同様の技術であり、利用者からの苦情解決は違和感無く取り組めています。
 その反面、保護者の方々から頂く苦情からは大変な違和感と共に重大な事柄を気付かされます。それは、保護者は「自分の子ども達の姿を全く知らない」という驚くべき事実です。何十年も自分の子どもを育てて来られたので、どうすれば少なくとも夜間と休日を一緒に過ごせるか、は体験的に把握しておられれます。しかし、施設に通所しているときの様子、場合によっては反社会的な行動、そして最大のポイントである本人の関心事、については全く無理解(というよりも無関心)と言っても過言ではありません。
 プライバシーを保護しなければならない為具体的にはお話し出来ませんが、子ども本人の能力からすると、「到底叶わない」あるいは「方向性が矛盾する」苦情や要望を受けることは珍しくありません。その中から、保護者の子どもに関する無知とそれを支える無関心に、私は正に圧倒されるのです。この無理解と無関心が利用者の通所の土台であるならば、その施設の機能の意味が不明確に感じられても不思議ではないと思うのです。

3 私達が失ってきたもの

 社会福祉を勉強してきた私にとって大変説得力のあった言葉は「障害者を一生『頑張れコール』の犠牲にしてはならない」というものでした。時に、障害者だってやればできるとか、頑張れば彼らだって、等の励ましとも何とも取り様のない言葉を、しかも専門家から聞きます。そんな時、私は心の中でこう確認するのです。「頑張っても出来ないから障害者なんだ」と。
 この「頑張れコール」の土台には、私達の文明の土台になりつつもその地位を徐々に明け渡しつつある「生産性絶対主義」があります。「働かざるもの食うべからず」のことわざが象徴するように、多くの場合、生産性つまり経済効果を上げることが人間の生きる目的として盲信されてきました。
 そして、生産性絶対の価値観の上に生活している人が、全く生産性を持たない人に出会う時に起こるのは、自分の価値観の枠の中に収まらない人の存在による不安感ではないでしょうか。つまり、自分の価値観を揺るがされる不安感から、頑張れ、もっと頑張れ、そして生産性という自分の思考の枠組みに入ってくれと叫んでいるように感じるのです。文頭にある意味理解その物です。
 生産性絶対主義、経済効果主義は、私達の生活を一見豊かにしましたが、視野を少し広げると地球規模の自然破壊、世界の富みの不均衡など、大きな問題をはらみ、そして経済効果を生まない人々を切り捨ててきました。実はこれこそが施設利用者が通所する本当の理由なのです。自分達の価値観の枠から出た人に対する、有無を言わせぬ差別、これが施設の存在理由です。

4 受け入れあう事の大切さ

 ある勉強会でカウンセリングの実習を行いました。私は相談する人の役を担当し、元音楽家の施設職員の心の葛藤を相談しました。そして私はその時、自分でも驚く感情に出会いました。「どうせ私の気持ちは分かってもらえないだろう」。この自らの感情に出会った時、私は背筋が凍る思いでした。何故なら施設利用者に同様に思われていると直感したからです。
 座っている人、歩いている人。黙っている人、喋り続ける人。食べる人、食べない人。笑う人、泣く人。正に多様な個性の利用者が通所する中で、自分の価値観をどれだけ彼ら彼女らに押し付けてきたでしょうか。その結果どうせ分かってもられないと思われていたのが、それまでの私の援助者としての姿でした。その気付きと共に利用者達の方に目を向けた時に、互いの多様性を認め合いつつ、その存在を確認しあい、つまりしっかりとコミュニケーションを取り合う、利用者独自の文化圏を見せつけられたのです。それは、ある利用者の言葉にしっかりと現れています。「僕がパニックを起こしたら先生ではなく園生の誰々さんに助けて欲しい」。

5 私達の本当の仕事の意味

 非合理的な理由に因り、通所せざるを得ない利用者とそれをささえる保護者の無関心、その背景の生産性絶対主義。しかし施設内では利用者のコミュニケーション能力と文化を見せつける利用者達と、それを羨望の眼差しで口をぼんやりと開けたまま見つめる私がいます。
 彼らの通所の理由あるいは私達の業務の意味に「表面上の」合理性を持たせるならば、利用者の「要支援度」が基準になるでしょう。それに保護者のコンセンサスを得られるかが一つの目標です。そうでなければ、目の見えない利用者に「早く新聞を読めるように躾けてほしい」という要望を受け続けなければなりません。
 しかし、今、私達専門職の本当にするべき仕事はそんな枝葉の問題では無く、彼ら彼女らが持っていて、私達が見失ってきた大切なもの、即ち互いに認めあい受け入れあうこと、コミュニケーションスキル、そしてその文化圏から真摯に学び、その存在を未だに「頑張って儲けるしか道は無い」と信じている人々に知らせて行くことではないかと思うのです。
 現在のホミニス学園は作業訓練の時間を大幅に削除し、学習と音楽を中心としたプログラムを提供しています。その原因は、作業訓練が成立しないほど利用者の障害が重度化してきたことに他なりません。ホミニス学園開所時に最重度だった利用者が、現在は最も軽い利用者の一人となっています。その為、主に危険を回避する為に、学習や音楽に変更しました。黒板とチョークが中心の学習、鉄琴、ギター等の演奏が中心の音楽の双方は、これまでの作業訓練と比較して、とにかく安全です。一見、生産性は殆どなくなってしまいました。
 しかし、共に学び、共に歌う生活は、時に示唆に富み、時にエキサイティングで、正に彼ら彼女らは私達の生きた教科書です。そしてそこから学び得たものを、地域社会に説明していけるならば、現在の価値観に惑う社会の中にあって、何らかの刺激、慰め、そして水先を示す羅針盤の意味を成すと思うのです。

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