のんきな園長奮闘記
新しい歌を主に向かって歌い
喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ
(聖書)
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第26回
最終回:ホミニス学園が目指したもの(09.6.20)
私は職員達に「壁の向こうに千人の観客がいるとイメージしろ」と繰り返し言いました。ステージ上で授業をパフォーマンスとして行うという意味です。
生産的能力は何も持たない人たちと、歌と笑顔と芸術的な雰囲気が溢れる授業を、多くの観客の前でやる。出だしは意味も分からず、行き当たりばったりのように進行して、最後には観客も一緒の大合唱で終わる、こんな舞台は、まだ誰もしていないと思います。
夢は叶うことはありませんでしたが、形は違ってもその魂は捨てずにいたいと思います。
施設時代のことは語りつくした気がしてきたので、このコーナーはこれで閉じます。
第25回
のんきな園長の施設援助論 最終回/変化を恐れない(08.3.8)
改善の方法が見つかってもそれを実施するのは難しいです。何しろ職員は皆忙しいし変化は大抵迷惑がられるからです。
でも恐れてはなりません。これまでの自分達におかしな自尊心を持ってはなりません。そして、不必要なものを切り捨てる勇気を持つのです。危険なのが分かっていても、ただ昨年もやっていたというだけで続けている行事はありませんか?
施設の管理は人の身体のそれと似ています。栄養も必要だし現代人にとってダイエットはそれ以上です。
第24回
のんきな園長の施設援助論4/リスクマネージメントは具体的な基準を設ける(08.1.12)
例えばトイレが汚れていたとして、何故掃除をするのか、その手順はどうするのか、他に優先すべきことはないか等々を判断するには、具体的な基準が必要です。その汚れがホコリなのか尿なのかでは対応も変わってくるし便や血液ならどうでしょう。
施設が管理責任を負うべきリスク、怪我、食中毒や感染症、行方不明等について、その項目作りからじっくり考えます。マニュアル化やフローチャート化は実際の対応をスムーズにしてくれます。
無理な理想を追うのではなく、少しでも改善するために何をすれば良いのか。その為には何が必要なのかを考えます。未解決な部分があったとしても、意識を共有していれば現場の職員のストレスはかなり下がります。
第23回
のんきな園長の施設援助論3/社会人としての義務を果たすための支援(07.12.14)
利用者の権利は声高に叫ばれますが、その義務については消極的です。誰もが社会に属して生きていく上で義務を負っています。その中で支援者が介入すべきなのは、誰かが痛みや不快感を受けること(それを私達は暴力と呼びました)をしてはならないことです。
暴力が行われるとき、3つの支援のポイントがあります。一つ目は加害者への支援(未然に防いだり、教育的な助言など)、二つ目は被害者への支援(痛みを癒す)、三つ目はその双方あるいはグループにおける関係調整(双方の代弁や、思想的な助言など)です。
また暴力は個人に対してだけではなくグループに対しても存在します。グループも人間と同じく有機体で、その場の目的も痛みを感じる感覚も共有しているからです。
第22回
のんきな園長の施設援助論2/能力判定の誤差は低めにとる(07.11.18)
利用者の能力を低く見積もることは、即ち援助量を多めにすることですから、利用者の利益と事故を防止する意味から大変重要です。
逆に見積もりたがる人は多く、能力が高いことが無条件に良いことであるという、条件反射にも似た深く刷り込まれた意識によるのでしょう。
能力が低いことは恥ずかしいことでは無いし、間違った見積もりによる不利益は利用者本人が被らなければならないことを忘れてはなりません。
第21回
のんきな園長の施設援助論1/グループリーダーを育成せよ(07.10.27)
どうやったら限られた人件費で沢山の利用者を満足させることができるのか。その答えは出来るだけ大きなグループを運営できるリーダーを育成することです。大きなホールで弾き語りで数時間演奏するコンサートを思い浮かべて下さい。理論上は一人のリーダーが無限大の人数の利用者を幸せに出来ます。
そしてそのグループから離れてしまう人、あるいは個別の対応が必要な人の数に応じて、アシスタントを配置します。これが最も意味のある人員配置です。一グループに利用者と職員を何人づつなどという脳天気な方法はお金をドブに捨てるに等しいです。
リーダーの力量が問われるのは勿論ですが、リーダーとアシスタントの役割分担を明確化しておくことが、事故を防いだり、グループワークの目的から外れないために、とても大切です。
第20回
のんきな園長の施設援助論/はじめに(07.10.10)
福祉施設勤務が終り1年が過ぎました。今は少人数のグループワークが僕の仕事ですが、これまでの施設勤務から学んだこと、それも職員としての技術論を忘れてしまう前に、どこかにまとめておきたくなりました。
次回からこのコーナーに少しづつ書いていきます。できるだけ読みやすい文章にして、実務に役立つように書くつもりです。今も険しい境遇に喘ぐ援助職と、舵を切る方向に迷っている管理者へのメッセージです。
それほど沢山のボリュームにはならないはずですが、夢と理想を追う感性がないと、多分読む意味を持たないでしょう。また、もしも質問があったらbbsに書込んで下さい。悩みを皆で共有しましょう。
書き足しながら頭を整理するので、かなりアトランダムな並びになります。
第19回
迷い(07.3.15)
トマトさんが私の息子になってから1年半経ち、これまで拒否されていた療育手帳などの再発行が、今になって何故か行われようとしています。全く理由は分からないし、些か困惑しています。県と茅ヶ崎市は「一切を認めない」と明言していたのですから。
多くの障害者が劣悪な福祉行政の犠牲になっていることは間違いありませんし、福祉運動家としてそれから目を逸らすことは許されません。ただ、その行政からの暴力があったからこそ、私はトマトさんと親子になる覚悟をしたのも事実だし、それを通じて私は新しい生き甲斐を与えられました。
総ての事柄の中に神はいて、最善の導きをしていると思います。それを踏まえた上で、この痛みと叫びを、どのように訴えるべきか。私は迷っています。
第18回
不思議な導き(06.9.9)
ホミニス学園は終わりの時を迎え、それをサポートしてきたボランティア会「5タラントの会」が事業を引き継ぐことになりました。学園が無くなることは勿論残念だし特にお願いして止めてもらった利用者もいるから、これを無配慮に肯定することは出来ません。ただ、ここまでの活動はまるでこれからの為に用意されていたかのようも感じます。
音楽家の経験を通じホミニス学園を経営し、その10年で練り上げた技術があったからこそ、次の道筋が見えてきたのです。このような歩みは過ぎてからでないとその意味は分からないものです。
第17回
小さくなること(05.12.20)
最近ウクレレを弾きはじめました。ウクレレを使って合奏する時、他の人との響き合いに気持ちが向きます。ギターだと自分だけで響かせることが出来ても、ウクレレでは無理です。音は小さいし音域も狭いからです。
イエス・キリストが弟子に「小さくなる」ように命じたのは、このことかなと思います。本当に語り合おうとするとき、援助者が大きくてはいけないのです。
第16回
林間学校(05.6.27)
学園で利用者さん2名と週末を過ごした時の事。電車を眺めるために線路沿いまで行き、御満悦の2名を他所目に僕は車に残り昼寝。
開けっ放しの窓からの風を感じながら、海水浴を思い出しました。熱い風、強い日ざし、心地よいだるさ。
しばらくはリゾート気分で、力を抜いて行こうと思います。あんまりストイックに授業をしていると、脳から夏バテしてしまうかも知れないし、自然の息吹を身体で感じることも大切だと思うからです。
第15回
霊的活動(04.10.14)
日々の活動を、論理的あるいは技術的に論証することに偏り過ぎたかも知れません。何に対してかというと霊的意味合いです。
これは勿論、神がかり的な神秘体験を言っているのではなく、何気ない日常にこそ、神との交わりを意識しなければならない。つまり信仰的活動だと思うのです。
第14回
正しければ良いってもんじゃない(04.9.2)
面接していて 相手が、僕が渡した資料を読んでいないので、そのことを指摘すると、すんごい早さで「いえ、読みました」と返事がきました。その時、ピンときました。「この人は怒られて育った」。
誰と話していても、仮に相手が論破しなければならない相手でも、人であることには変わりないし、その人だけの歩みがあって、そして今、僕の目の前にいる、という、言わば当たり前のことに、初めて気付きました。
正論は大切だけど、それだけじゃ、人として寂しいですね。
第13回
語るべき言葉(04.5.30)
無言語で授業を行いながら、ある日突然気付きました。言葉を使わなかったとしても、音やジェスチャーで指示が出ていれば本質的には何も変わっていないのです。
どれだけ無駄な音を出していただろうと思います。音の一つひとつを大切に発していきたいと思います。
気付きを与えてくれた利用者の皆さんに感謝します。
第12回
何も持たない自由(03.10.9)
利用者と音楽をやるとき、即興演奏に大変大きなこだわりがありました。自分のスタイルを保持しないと不安だったからです。
でも最近は普通の4拍子の曲もやり、童謡だってやります。スタイルに対するこだわりが薄れてきました。
即興であることに対するこだわりが、かえって枠を作っていたようです。とても自由になりました。
第11回
何も分かっていなかった(03.9.9)
僕は最近、うつを患っています。悲しくて仕方ないし、ちょっとしたストレスで自傷もします。
今まで援助者として自傷をする人に何人も向き合ってきました。いえ、向き合ったつもりになっていました。でも、自分がその身になると、それまでとは全く違う見方になるのです。
僕は人の痛みが全く分かっていませんでした。しかし、今は、少しは分かります。うつになって良かったと思います。
第10回
触れ合う意味(03.8.3)
ホミニス学園の授業では「共同表出」と呼んでいる書道の手取り法のような指導方法が大半を占めています。学習者は指導者の手や腕あるいは肩に手を触れているだけで、実際の動作は指導者が行います。
この方法の意義を動作を通した交流であると直感したのと同時に、学習者の能力が問われないことも、この方法を用いる大きな理由です。
一人で何かを出来るようになることは素晴らしいことですが、お互いの腕の力を感じながら、息を合わせて、合奏するように行う瞬間も、それはそれで人生の美しい1ページだと思うのです。
今日気付いたのですが、これは平たい言葉で言う所の「スキンシップ」なのかも知れません。皆さんは、誰かと触れ合っていますか。
第9回
転換期2(03.7.11)
最近立続けに起こる出来事。(詳しくは書けませんが)
この数年は、利用者が喜ぶ授業、美しい音楽、豊かな学びを追い求め、それなりの成果を上げてきました。最高に輝いたまま、最後を迎える覚悟をしていました。
しかし、文頭にある出来事は、建物の中での授業という狭い枠をはるかに超えた所で起こります。激しい最終楽章になる予感がします。
第8回
転換期(03.6.25)
実は僕は、社会福祉に対する興味がなくなる一方で、学会の報告や研修の案内を見ても殆ど心が動きません。
何故かというと、それらの多くは「当事者の欠けている部分をどう補うか」という視点に終始し、当事者であるなしに関わらず「どう生きて行くのか」を論じてくれないからです。普通の生活を目標としたとしても、今の普通の人達の荒廃振り、絶望的な失業率、これらをどう説明するのでしょう。
僕は理屈をこねるのが面倒になってきました。これからは感性に正直に生きようと思います。利用者と精一杯音楽をやろうと思います。
第7回
アシスタント論(03.5.14)
どういう訳か、大体一年に一つ、大きな研究テーマが見つかります。過去を振り返ると、「利用者中心のプログラム、ホームルームから学ぶもの」「ケース記録と当事者との情報の共有のあり方」、そして昨年は「利用者同士の暴力の管理」でした。そして今年のテーマが見つかりました。
ここ数年人材育成をテーマに喘ぎ続けてきましたが、それと同時に、リーダーとアシスタントという大体の役割分担も定着してきました。現在、アシスタントの仕事は、経験則的には充実してきましたが、その論理体系的には皆無に等しいです。それを現場の職員の意見を中心に組み立てていこうと思います。
タイトルは「アシスタント論/施設職員の自己決定」です。大体、今年度いっぱいかけて取り組みたいと思います。
第6回
ダイエット効果(03.4.12)
実は僕は太り過ぎてしまい、今ダイエットの真っ最中です。もう辛いです。夜中に空腹で目がさめます。でも体調はどうかと言うと、1身体が軽く感じる 2血圧が下がる 3胃腸が調子良い
と良い事づくめです。
施設経営も今ダイエットが求められます。お金や業務の無駄を削り、何が利用者の利益に繋がるのかをしっかりと見極めなければなりません。でも経営者を振り回す無駄な情報の数々。
ダイエットしつつ必要な栄養を選び、足腰が強く、フットワークの良い施設を目指したいです。
第5回
意外な盲点(03.1.28)
先日、指導員が体調を崩し欠勤しました。現在、ホミニス学園は12名の利用者に対して、学事は私と指導員2名で行っていますが、1名欠勤すると残りは2人。この単純な計算に気付きませんでした。もうパニックです。
後1名雇っても余ってしまうし、1名欠勤したら人手不足で大慌て。ん〜、何か良いアイディアはないかなと頭を絞っています。
何でも一人で出来るつもりでいましたが、そんなおごりを反省する良い機会だったかもしれません。
第4回
変容を求めないこと(02.12.15)
どうやったら部下が育つのか。この喘ぎの中の数年でしたが、ホミニス学園指導要領を読み直していたら見えてきました。
相手の変容を求めないこと。ここがポイントだと思います。これは相手の能力に見切りをつけるという意味では無く、部下の仕事がどうであれ、利用者へのサービスの質を保証できる管理体制にある、ということです。そして、部下の自発的な成長を信頼する態度です。
つまり、今のままで良いということに気付きました。慎重に「必要な肥料」を選んでいきたいと思います。
第3回
ヒッピーになろう(02.12.2)
ホミニス学園は「ヒッピー」に似ている。
戦争に反対し、
新しい家族を目指していて、
芸術的で、
彼らは仏教(だったっけ?)だったけど、僕達はキリスト教で、
勿論、「愛と平和」で、
周りから変な目で見られていて、
違うのはドラッグがないこと位かな・・・。
第2回
大切な原則(02.11.24)
施設の運営方法を話し合っている時、特に利害が絡むような(リスクマネジメントが代表的ですが)話題の時によく聴かれる言葉に「施設の都合」があります。私はこの言葉が大好きです。なぜならば、施設に都合が悪いようなら支援は充実する訳はないからです。
究極的な例えで言うと、災害救助場面では、救助隊員の安全が確保出来ない救助は行われません。何故なら救助隊員が被災しては、救助が成り立たないからです。ここでは、救助隊の存在理由が極めて明確であるため、被災者と救助者の「利益」は合致します。ところが福祉施設となると、どうも存在の意義がぼやけて、利用者と施設の「都合」がずれて話されるのです。
施設は利用者を内包している存在なのに、何故、「分離」を前提に考えられるのでしょう。私はここに大切な問題が隠されているように思います。
第1回
就労(しない)支援(02.11.2)
いきなり喧嘩を売るような話題なのですが・・・。
就労支援自体は別に良いのですが、それが余りに無配慮に広範囲に当てはめられようとするならば問題があります。なぜなら地域社会が福祉施設に押し込めてしまう位反社会的な人が、いきなり社会に出てお金を稼ぐ側になれるとは、到底考えられないからです。それに就労支援に関わる採算(経済効果を社会参加の理由にするなら、ジョブコーチの給料は必要経費だからです)を合わせようとするなら、余計大変です。
そんなことより、障害を持った方の「ただで通える場所」を見つけた方がよっぽど良いと思います。何故ならそれだけで(施設通所と比べて)1人当たり概ね年間200万円弱の節約になります。勿論、就労に関わる人々の苦痛もありません。
お金を稼げないけれども国費を(措置費や支援費ほどは)圧迫しない。こんなスタイルも良いのではないでしょうか。
でも最大の難関は、誰彼問わず「人は稼げなきゃだめ」と頭に叩き込まれていることなんですよね。