この文書は、私のミュージシャンと施設職員の双方の経験を通して感じたことを、とある勉強会で発表するためにレジュメ風にまとめたものです。(2001.7.31)

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音楽と生活の関係

ホミニス学園長 小堀俊二



発表の概要

 楽器演奏者としての経験を土台として、音楽の特性と対人援助のあり方を照らし合せながら、その現実性や課題を探ってみたい。

音楽の特性

*音楽は、自ら作り上げることは不可能であり、仲介者の意志を認めることが必要である。自らの無力を認めるところに解放がある。

 自らの演奏している感覚と、共演者あるいは観客に伝わる感覚(それらの人の感じ方)には、極端な差が生じることは珍しくない。これを、個々の価値観、感受性の差異として捉える方法もあるのではあるが、むしろ、音楽を伝えるという行為は、そもそも人間には不可能であり、なんらかの仲介的な存在の力により、相手に伝えられている、と理解する方が自然である。つまり、演奏者は音楽のある程度の(おそらく数十パーセントに過ぎない)形成を行うのであるが、それは、他者に伝わる実感する時点の音楽に関しては、極めて無力である。これを認めない限り、音楽演奏を行うという行為は、多くの場合、力づくで、バランス感覚を失い、苦痛に満ちたものになる。

*音楽は、実感が最重視される。

 どんなに理論的に正しくても、実感として違和感がある場合は非常に多く、良いフィーリングを得るために、あえて理論的に間違った方法を用いることも多々ある。また、笑顔とユーモアは強い力を発揮する。理屈を用いた説明は、時としてひんしゅくをかうまでに無意味である。

*良い音楽は変化に富んでいる。

 良い演奏をするためには、入れ子状態の変化を意識する必要がある。つまり1小節の中の変化(強弱、音色、フレージング、緊張感等)、8小節の中、32小節の中、1曲の中、1ステージの中という具合に、ひとかたまりの時間経過の中には変化が必要である。

*ハプニングを肯定的に捉える感性は良い音楽を生む。又、音楽は決して止まってはならない。

 どんなに計算され、繰り返しの練習により安定した演奏でも、必ずしも「いい感じ」にはならない。完成度と比例して退屈さは必ず生じる。そのため、打ち合わせを最低限に控え、偶然性やその場の緊張感を優先させる演奏者は極めて多い。その為には、弾き間違いも含め、ハプニングを喜ぶ感性が必要である。偶然生まれたハプニングを積極的に捉えて、緊張感を保つ方法による演奏は、大抵の場合、極めて上質である。ポイントは、いかなるハプニングも肯定的に捉えることが可能であると信じることであり、それが不可能になった時に音楽は止まる。これは、通常、あってはならない。

*良い耳を持っている人は、良い演奏が可能である。

 説明不要。

*良い演奏家は、とにかく造り上げるのが早い。時に直感的且つ臨機応変である。

 あらかじめ楽譜が用意されている場合はともかく、演奏者が自らの演奏の内容を決めなければならない場合は非常に多い。特に職業音楽家である場合は速い処理速度が求められるため、アイディアのストックの数と、その場での創造力が求められる。

*下手だって音楽は楽しめる。基準などないし、楽しんでしまえば「勝ち」である。

 著明な音楽家であろうとも、アマチュアの演奏者の演奏にとやかく意見することはできない。アマチュアであろうとも技術的に幼くても、その人なりの表現は尊重されなければならず、感じ方に関しては尚更である。つまり、主観の問題なのである。



援助場面への応用と課題

 前記の*の項目の「音楽」を、生活あるいは援助と読み替えることで、発表者の意図する対人援助が表現されたことになるが、その価値観は理解されることは少ない。その原因を探ると以下のようになる。

*援助の行為のみを論じられがちであること。

 被援助者の生活は、「他者との関係性」の上に成り立っているにも関わらず、その援助は、単に福祉サービスという行為や技術として語られる。これでは原理的に生活の援助にはなり得ない。なぜなら、どんなフレーズを弾くかのみが論じられ、それが聴き手との有機的な関係性の上に行われることや、雰囲気という捕らえ所のないものは、無視されていることになるからである。

*障害者の能力や生活のあり方に、周囲が基準と比較したがる傾向が強いこと。

 音楽が誰でも楽しめて、その技量に基準等ないのと同様に、本来は能力や生活のあり方には基準等は存在しない。にも関わらず、障害者の生活に基準を求めたがるのは、地域社会がそのままの当事者を受け入れる覚悟ができていないからであろう。社会との適合性を論ずるならば、変化しなければならないのは(そもそもどちらが非人道的であったかを見るなら)社会の側であることは明白である。また、障害者に限って(愚にもつかない)能力評価の対象となるのは不思議である。例えば、「昼夜逆転」を問題視(その御家族の苦労は察するに余りあるが)するならば、多くの音楽家は処遇の対象とならなければならない。問題は、障害者の生活(これには援助技術も当てはまる)に限っては「向上しなければならない」と信じられているところにある。しかし、これを捨て去るにはある種の欲求をも捨て去る覚悟を迫られる。能力向上は、援助者にとって複数の意味において蜜の味(援助者の満足感、障害を受け入れなくても済む)だからである。


まとめ

 どんなに困難な状況であろうとも、援助者、被援助者とも、やり様によっては、肯定的で、変化に富んでいて、ユーモアに溢れる、まるで音楽の様に素敵な生活を味わえると、発表者は信じている。また、その範疇を超えたケースも含め、援助とは文頭にある「仲介者」への問いかけの行為であり、決して援助者が自力でどうにかするべき物ではない。

以上




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