Heizo eats.


田螺とわけぎのぬた

 顔見知りの〔鶴屋〕の亭主が、熱い酒と共に、田螺とわけぎのぬたの小鉢を盆にのせて、平蔵のいる座敷へあらわれた。
「や……これはうまそうな」
 平蔵はすぐに箸をとり、
「ご亭主。酒の相手をしてくれぬか」
「はい。私でよろしいのでしたら……
白魚と豆腐の小鍋だて

 このとき利右衛門が手料理の白魚と豆腐の小鍋だてと酒をはこんできた。
「や、これはよい」
「春のにおいが湯気にたちのぼっているなあ、左馬」
「うむ、うむ」

(鬼平犯科帳1「暗剣白梅香」より)
天麩羅そば

「酒と……それから、天麩羅をもらおうか」
 注文して、平蔵は入れこみの八畳へ上がった。
 天麩羅そばがあつかわれるようになったのは近年のことだが、いまや大流行のかたちとなり、それぞれの趣向をこらし、どこのそば屋もちからを入れている。
〔さなだや〕は老夫婦と小女ひとりの小さな店なのだが、後で岸井左馬之助にきくと、
「あそこは源兵衛橋の蚤そばといってね。土地(ところ)の者はみんな知っている。めっぽううまい。そうだったろう、平さん」
 それはさておき……。
茄子の香の物へ溶き芥子

 平蔵と左馬之助が黙然と盃をなめていると、
「ありあわせでござります。よろしかったらお箸をおつけ下さいまし」
 小男の、さなだや亭主・庄兵衛が、茄子の香の物へ溶き芥子をそえ、銚子と共にはこんできてくれた。
「や。こいつは何よりのものだ」
「御亭主。世話をかけるねえ」
「どういたしまして……」
「おい、左馬。いつの間にか灯がともっているよ」
「ずいぶんと飲ったな」
「夜が暑くなって来た」
「お……源兵衛橋の上に、涼みの人のはなし声がする。夏になると、このあたりの夜も、わりとにぎやかになるのだなあ」

(鬼平犯科帳2「蛇の眼」より)
鯉の洗い

 生簀からひきあげたばかりの鯉を洗いにした、その鯉のうす紅色の、ひきしまったそぎ身が平蔵の歯へ冷たくしみわたった。
「むむ……」
 あまりのうまさに長谷川平蔵は、おもわず舌つづみをうち、
「これは、よい」
 すると、おなじひもうせんを敷いた腰かけにいる木村忠吾が、
「まるで,極楽でございますなぁ」
 などと、妙に年よりじみたことをいうのが平蔵にはおかしかった。
「鯉を食べて、あの女賊のあぶらぎった肌身でもおもい出したか」
「ま、またもそのような……何とぞ、もう、ごかんべん下さい」
 虫栗の権十郎一味と女賊お豊が,京都西町奉行所の手で捕らえられてより十日目である。
鮎、とうふの田楽

 山頂より五十余丁の山道を下り、清滝川をわたって試坂をこえると、そこが愛宕社・一ノ鳥居である。
 この鳥居ぎわに、わら屋根の、いかにも風雅な掛け茶屋があって、名を〔平野や〕という。
 平野やは、享保のころからある古い茶屋だそうな。
愛宕詣での人びとが、ここへ来て一休みし、いよいよ山道をのぼろうというわけで、平蔵も往きには足をやすめている。
 夏になると、保津川や清滝川でとれる鮎をこの平野やまではこび、荷の中の鮎へ水をかえてやり、一息入れてから京へはこぶのだ。
 平蔵と忠吾が、ここまで下って来たときは、まだ昼前であったけれども、
「腹をこしらえてゆこうか」
 ずいと入るや、
「おつかれさんでござります」
 赤前かけの女たちが、すぐさま、谷川へ面した腰かけへ案内してくれた。
 すうっと汗がひくほど、山肌の若葉にうもれつくしたかのような茶屋なのである。
 盃をもつ手のゆびまでが緑に染まってしまいそうであった。
 こころゆくまで嵐気にひたりつつ、おもうさま酒をのみ、鮎を食べ、さらにとうふの田楽、鮎の飴だきとつづく。
 木村忠吾ならずとも、まさに極楽の気分。食事をすませ、平野やを出て、参道を化野(あだしの)へ向ううちにも、
「めずらしく酔うた……」
 長谷川平蔵の足どりがゆらゆらとゆれはじめた。

(鬼平犯科帳3「凶剣」より)
芋膾(いもなます)

九平の店で評判の食べものは、
〔芋膾〕である。
これは、里芋の子を皮つきのまま蒸しあげ、いわゆる〔きぬかつぎ〕をつくり、
鯉やすずきなどの魚を細目につくって塩と酢につけておき、
芋の皮をむいて器へもったのへ魚の膾をのせ、合わせ酢をかけまわし、きざみしょうがをそえた料理だ。
季節になると、加賀屋の芋膾を食いに行こうというので、酒が飲めない連中も九平の店へ押しかけるさわぎ。
気が向くと九平は、芋飯を炊いて客へ出したりする。
どうも九平、芋が大好きなのらしい。

(鬼平犯科帳5「兇賊」)


 蕎麦にしろ鰻にしろ、近年は、調理法に贅沢な変化があらわれてきはじめた。
辰蔵が子供のころは、鰻なぞも丸焼きにしたやつへ山椒味噌をぬったり豆油(たまり)をつけたりして食べさせたもので、
江戸市中でも、ごく下等な食物とされていたものだ。とても市中の目ぬきの場所に店をかまえて商売ができる代物ではなかったのである。
 それが近年、鰻を丸のままでなく、背開きにして食べよいように切ったのへ串を打ち、
蒸銅壺(むしどうこ)にならべて蒸し、あぶらぬいてやわらかくしたのを今度はタレをつけて焼きあげるという、
手のこんだ料理になった。これをよい器へもって小ぎれいに食べさせる。
「鰻というものが、こんなにおいしいものとは知らなかった……」
 いったん口にすると、後をひいてたまらなくなる。客がたちまち増え、したがって鰻屋の格もあがり、江戸市中にたちまち、鰻屋が増えたのだ。

(鬼平犯科帳7「泥鰌の和助始末」より)
芹の味噌椀、わけぎと木くらげを白味噌和え、鱒の味醂漬け嫁菜ぞえ

 めっきりと春めいてきた日射しにつつまれ、仲のよい従兄と実母の墓参におもむく一日。平蔵は何も彼も忘れかけている。
 墓参をすませたのち、
「今日は平蔵さまよ。ちょと、おもしろいところで昼餉にしましょう」
 と、仙右衛門がいう。
「ほほう。この近くかな?」
「さよう、さよう。すぐ、目の前で」
 円通寺から中仙道へつづく往還へ出ると、通りの向こう側の彼方に、駒込神明宮の森がのぞまれた。
 岩ふじ海道とよばれる往還から、神明原とよばれる広大な、いちめんの芝生をへだてて、遠くに神明宮の鳥居と森がのぞまれる。
 往還に面した駒込富士前町の家並の中に、仙右衛門がいう「おもしろいところ」があった。
 それは〔瓢箪屋〕という料理屋で、風雅なわら屋根の、いかにも田舎ふうな店構えながら、
中へ入ると塵ひとつさえ嫌いぬいた、清げな座敷が四つほどあり、中庭から裏手にかけては、さわやかな竹林になっていた。
「これはよい」
 平蔵は、たちまち気に入ってしまった。
 芹の味噌椀。わけぎと木くらげを白味噌で和えたものとか、鱒の味醂漬けを焼きあげて嫁菜をそえたものなど、
別に凝ったものではないが、それだけに念が入っていて、「これはよい、これはよい。このあたりに、このような店があるとは、実に知らなんだ」
「お気にめしましたかね?」
「いつから、このような?」
「なんでも、ここへ店を出してから五年になるそうで。主人は六十がらみの、いたっておだやかな人柄でな。独りものだそうですよ」
 仙右衛門がいううちに、その主人の勘助が、あいさつにあらわれた。
 平蔵は、とっさに仙右衛門へ眼くばせをした。自分の身分や名を語ってくれるな、と、いささか口のかるい従兄にいったのである。
これは別に他意あってのことでない。必要のない場所で物騒な盗賊改方の名を出すにはおよばぬからであった。

(鬼平犯科帳7「盗賊婚礼」より)
鯉の塩焼、軍鶏の臓物の鍋

 三次郎は、先ず、鯉の塩焼を出した。
 鯉の洗いとか味噌煮とかいうけれども、実は、塩焼きがいちばんうまい。
 酒も、とっておきのを出してくれた。
「こりゃあ、どうも……ふむ、ふむ。こいつは、へえ、たまらなくうまい」
 次郎吉は、舌つづみをうち、「あんまりのむと、こんなうめえものが腹へ入りません。
ですからすこしずつ……」と、なめるように、ゆっくりと酒をのんだ。
 次に、軍鶏の臓物の鍋が出た。
 新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。
熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは、夏の快味であった。
「うう……こいつはどうも、たまらなく、もったいない」
 次郎吉、おおよろこびであった。

(鬼平犯科帳8「明神の次郎吉」より)
浅蜊と葱の煮込み

安兵衛は、もう七十に近い老爺であるが、小柄な細い躰をきびきびとはたらかせ、台所で夕餉の支度にかかった。
浅蜊の剥身を、塩と酒と醤油で、うす味に仕たてた出汁で葱の五分切といっしょに、さっと煮立てて、
「さ、いっぺえ飲んなよ」
文五郎へ、酒をすすめた。
「いただきます」
と、雨引の文五郎はひざもくずさぬ。

(鬼平犯科帳10「犬神の権三」)
白髪蕎麦

 三ツ目橋をすぎ、緑町二丁目の〔大黒屋〕という蕎麦屋へ、長助が入って行った。
 この店の名物は〔白髪蕎麦〕というので、つまり細打ちの白い蕎麦なのだろうが、おまさは食べたこともない。
大黒屋は近年の開業で、しゃれた店構えの高級蕎麦屋で、近ごろは、こういう店が江戸市中に増えてきている。
 ただ、蕎麦を食べるというのではなく、男女の密会や、ちょいとした密談に格好な小座敷があるのだ。
 おまさは大黒屋の前を通りぬけ、急ぎ足となり、すぐ近くの軍鶏鍋屋〔五鉄〕へ飛びこんだ。

(鬼平犯科帳10「蛙の長助」より)
田舎蕎麦

 下谷の車坂代地に〔小玉屋〕という小さな蕎麦屋がある。
 いかにも頑固そうな五十がらみの亭主と女房と、一人息子と三人だけでやっているのだが、蕎麦は太打ちのくろいやつで、薬味も置いてなく、
流行の貝柱のかき揚げを浮かせた天麩羅蕎麦などはもちろんのこと、種物は、いっさい出さぬ。
 ただもう、太打ちの田舎蕎麦一すじにやっているので、常客といえば、ごく限られてしまうわけだが、
「十日も口にせぬと、おもい出すというやつだ」
 と、妻の久栄にもらしたことがあるほどに、長谷川平蔵は小玉屋の蕎麦を好んだ。
 秋晴れの或日の昼下がりに、例のごとく、編笠と着ながしの浪人姿で単独の市中見廻りに出た平蔵は、上野山下へさしかかって、
(おお、ちょうどよい折り……)
 山下から、浅草へ通っている新寺町の大通りへ出た。
 小玉屋は通りの北側の、御持組の組屋敷と道をへたてた角地にある。
 入って、平蔵が茶わんの冷酒をもらい、太打ちの蕎麦をすすりこんでいると、入れこみの畳敷きの、となりへすわりこんだ三人づれの、
職人らしい男たちが冷酒をのみながら語り合っている声が、
「否応なしに……」
 耳へ入ってきた。

(鬼平犯科帳11「土蜘蛛の金五郎」より)
鴨の網焼きと吸い物

 町駕籠に乗って出て行った長谷川平蔵が、役宅へ帰ったのは夜に入ってからである。
 佐嶋は今夜も泊り込むつもりで、長官がもどるのを待っていた。
「すまぬな。今夜は組屋敷へ帰ればよかったものを……」
「とんでもないことにて……」
「これから忙しくなろうというのじゃ。いまのうちに骨やすみをしておいてもらわぬと困る。わしだとて、そうしているのじゃ」
「おそれ入れましてございます」
「ま、では、居間へまいるがよい」
「はっ」
 平蔵が入浴を終えて出て来ると、久栄が酒の肴の支度をととのえ、侍女に運ばせ、居間へあらわれた。
「鴨じゃな」
「はい」
 鴨の肉を、醤油と酒を合わせたつけ汁へ漬けておき、これを網焼きにして出すのは、久栄が得意のものだ。
つけ汁に久栄の工夫があるらしい。今夜は、みずから台所へ出て行ったのであろう。
 それと、鴨の脂身を細く細く切って、千住葱と合わせた熱い吸い物が、先ず出た。
「久栄。わしに、このような精をつけさせて何とするぞ?」
「まあ……」
 久栄は顔を赤らめた
 四百石の旗本の、通常の暮しならば、とてもこのような冗談を、配下の者の前でいうこともあるまいが、そこは火盗改方の役宅の気楽さであった。
 いちいち体裁にかまっていては、物事がはかどらぬ御役目なのである。

(鬼平犯科帳16「火つけ船頭」より)
蒟蒻と油揚げと豆腐の和え物

 それから二刻(四時間)ほど後になって、どうしたことか、長谷川平蔵が〔権兵衛酒屋〕の裏手の竹藪の中に佇んでいる。
 二刻といっても、そのうちの半刻(一時間)は、権兵衛酒屋にいて酒をのんでいたのだ。
 たしかによい酒であったが、平蔵は亭主にも女房にも、はなしかけたりはしなかった。
「有合せ一品のみ」
 の、その一品は蒟蒻であった。
 短冊に切った蒟蒻を空炒にし、油揚げの千切りを加え、豆腐をすりつぶしたもので和えたものが小鉢に盛られ、運ばれて来た。
 白胡麻の香りもする。
 一箸、口をつけた平蔵が目をあげたとき、奥の板場との境に垂れ下がっている紺のれんのところにいた女房と、目と目が合った。
 平蔵が、さも「うまい」というように、にっこりとうなずいて見せると、女房の目が微かに笑ったようだが、依然、口をきこうとはせぬ。

そばがき

 お熊は、居眠りもせずに、店の一隅で何やら物音をさせていたが、居残った松永弥四郎へ、
「こんなものを、あがるかえ?」
 蕎麦粉を熱湯でこねた〔そばがき〕を出したものだ。
「いただきます」
 松永は腹が空き切っていただけに、たちまち、平らげてしまった。
「ほう……うまそうだな」
 と、平蔵。
「てっつぁんも、あがるかえ?」
「ほしいな」
「いいとも。ちょいとお待ちよ」
「婆さん。遅くまですまんのう」
「こんなことで、へたばるようなお熊じゃあねえよう」
 婆さんの元気には、おどろくほかはない。
「七十をこえてから、すっかり丈夫になってしまい、このままずっと、死なねえような気分になっているのだよう」
「どうも、おどろいたな」
「だからてっつぁん。いくらでも、扱き使っておくれ」
 一人暮しのお熊だけに、平蔵の役に立っていることがうれしくて仕方がないらしい。
 与力や密偵や同心たちが、つぎつぎにあらわれることも、
「にぎやかでいいねえ」
 お熊を、よろこばせている。
 お熊は手早く、平蔵と松永のお代りのと、そばがきを二つこしらえた。
 さすがに年の功で、こね方がまことに程よい。
 きざみ葱を散らし、醤油をかけまわしただけの〔そばがき〕なのだが、
「こいつを、何年ぶりに口にしたことか……」
 さも、なつかしげに箸で千切って口へ運びつつ、平蔵がいった。
「婆さん。御代りが要るぞ」
 お熊は、さらに忙しくなった。
 同心、沢田小平次が駆けつけて来たからである。
 沢田は、高橋勇次郎が襲われたことを告げに来たのだ。
「何、高橋が……」
「取りあえず、上野の仁王門前町の拝領屋敷へ運び込み、医者をよんで、手当をいたさせました」
「それで?」
「どうにか、一命は取りとめるかとおもわれます」
「あわて者めが……」
 舌打ちをした平蔵が、
「曲者どもは、このわしを討った高橋の口を塞ぐために、消してしまおうとしたのであろう」
「さようにおもわれます」
「拝領屋敷なら、先ず、だいじょうぶじゃ」
 そこへ、お熊がすかさず、
「沢田さん、はいよ」
 そばがきを運んで来た。
「あっ……」
「何をびっくりしていなさる?」
「私は、これが大好物なのだ、婆さん」
「よかったのう」
 と、平蔵が、
「これ、婆さん。お前には褒美を出さねえといけねえ。何がいい。のぞみのものをいってごらん」
「そんなに大きく出ていいのかえ、てっつぁん」
「いいとも。さあ、いってみろ」
 すると、お熊が平蔵に流し目をくれ、歯が抜け落ちた口をぱくぱくさせて、
「いっぺん、しみじみと抱いてもらいてえよう」
 と、いったものだ。
 むろん、冗談ではあったろうが、沢田も松永も毒気をぬかれて、おもわず手にした箸を落としてしまった。
 ところが長谷川平蔵、びくともせず、
「おお、いいとも。婆さんの歯抜けの口を吸ってやろうか」
 長官の、この言葉にも、若い二人の同心は仰天した。
 お熊は気を悪くしたらしく、平蔵を睨みつけている。

(鬼平犯科帳17「鬼火」より)
梅安より



彦次郎は、梅安の側へ寝そべり、煙管の掃除をしている。
二人は、伊皿子の魚や・久七がとどけてくれた鰹の片身を刺身にし、溶き芥子をそえ、
遅い昼飯をすませたところであった。
彦次郎は中落をうまくこなし、酒・醤油・味醂で辛目に煮つけ、
「晩飯のときには、あいつを骨までしゃぶるのが、たのしみだねえ、梅安さん」
煙管をいじりつつ、眼を細めたところへ、梅安のつぶやきをきいた。

(仕掛人・藤枝梅安2「梅安蟻地獄」)

生薑をきかせ、巧妙に葱をあしらった兎汁

〔万七〕の兎汁は、生薑をきかせ、巧妙に葱をあしらったもので、これが藤枝梅安の大好物なのだ。
味噌吸物にもしてくれるし、鍋にもしてくれる。
夏が来ると〔万七〕は二ヶ月ほど休業してしまう。
そのこともあって、
(夕飯は、万七ですまして行こう)
と、おもいたったのだ。
日が長くなって、七つ(午後四時)だというのに、あたりは、まだ明るい。
「これは先生。お久しぶりでございます」
愛想のよい〔万七〕のあるじの声に迎えられ、梅安は、二階座敷へあがった。
二階に、座敷が二つある。
小さな火鉢が梅安の前に置かれ、そこへ、小ぶりな鉄鍋をかけ、
女中が出汁(だし)をそそぎ、客の目の前で兎汁をつくる。
淡白な兎肉の脂肪が秘伝の出汁にとけあい、
「いつもながら、うまいな」
梅安が舌鼓を打ったとき、となりの座敷へ、客が入って来る気配がした。

(仕掛人・藤枝梅安2「梅安蟻地獄」)

さっと煮つけた子もち鯊と湯豆腐、貝柱飯

「貝柱のいいのがあったよ、梅安さん。それに豆腐と、子もちの鯊を買ってきた」
「それで、充分だよ」
「どうしなすった。にやにやと、妙な笑いをしなさるじゃあねえか」
「うふ、ふふ……こんなことは、私も、はじめてだよ」
「札掛の元締が、そんなに妙な仕掛けをたのみに来なすったのかえ?」
「そうとも、そうともさ、彦さん。まあ、きいておくれ」
それからしばらくして、二人は膳をかこみ、酒を酌みかわしていた。
さっと煮つけた子もち鯊に、湯豆腐である。
貝柱は後で、焚きたての飯へ山葵醤油と共にまぶしこみ、
焼海苔をふりかけて、たっぷりと食べるつもりであった。

うす味の汁でさっと煮た白魚の潰し卵かけ

風呂場から出てくると、離れでは、おもんが酒食の支度にとりかかっていた。
「や、白魚だね」
「先生の、お好きなようになさいますね?」
佃の沖で漁れた白魚が平たい籠に盛られてい、小さな細い透明な魚の躰から
籠の目が透き通って見えるようにおもえるほどだ。
それに黒胡麻の粒一つを置いたような愛らしい白魚の目はどうだ。
食べてしまう自分(おのれ)が憎らしいとさえ感じらてくる。
おもんは、火鉢へ小鍋を置き、塩と酒とで淡味の汁を煮たてた。
「こんなもので、ようございますか?」
「どれ?……ああ、よしよし」
梅安は、それへわずかに醤油をたらしこみ、菜箸にすくい取った白魚を鍋へ入れた。
こうして、さっと煮た白魚へ、潰し卵を落しかけて食べるのが、梅安の好みなのである。
(仕掛人・藤枝梅安2「春雪仕掛針」)

大根と油揚げ

梅安は、みずから立って〔井筒〕の板場へ行き、酒と料理をあれこれと注文し、
また〔離れ〕へもどってきた。
「彦さん、梅雨の冷えは特別のものだねえ」
「まったく、気がくさくさする」
「彦さんが食べなくてはいけないものを、いま、注文してきた」
「へへえ……」
やがて、小さな焜炉に土鍋をかけたものが、はこばれてきた。
中には大根と油揚げのみであった。
「出汁が鶏さ。ま、食べてごらん」
「む……悪くねえ」
「こういうものも、たまにはいいだろう」
「いいね。うめえよ」
「ときに……?」

(仕掛人・藤枝梅安1「殺しの四人」)

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