Heizo says.


「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」
(鬼平犯科帳2「谷中いろは茶屋」より)

 長谷川平蔵が同心木村忠吾に語った言葉。「鬼平犯科帳」のみならず、「仕掛人梅安」など池波作品の中で繰り返し語られる人間観である。純粋な善も純粋な悪も存在しない。時に人のためによかれと思ってやったことが知らないうちに他人を傷つけたり、人を殺すのをなんとも思わないような悪人が一方で他人に感謝され仏のように思われる行為をしていたりする。
 ちなみに同じ話の中に次のような言葉も出てくる。
「人間という生きものは、悪いことをしながら善いこともするし、人にきらわれることをしながら、いつもいつも人に好かれたいとおもっている……」
 この話をした「川越の親切な男」のことを木村忠吾から聞いた平蔵、「その旦那という人物。おもしろい男よなあ。おれも会ってみたい気がする。このごろはそうした人が少なくなった。これもご時世なのだろうが……」と残念がるのだが、この川越の旦那の正体は江戸市中の商家を荒らし、そのたびに被害者を皆殺しにしている兇盗・墓場の秀五郎なのだった。
 平蔵は国綱の大刀を正眼から下段のかまえにうつしつつ、
(おそらく、浦部は逃げ切れるだろう)
 と、おもい、にやりと笑って見た。
 その笑いが平蔵自身を大胆なものにした。
 平蔵は曲折に富んだ四十余年の人生経験によって、思案から行動をよぶことよりも、先ず、些細な動作をおこし、そのことによってわが精神を操作することを体得していた。
 絶望や悲嘆に直面したときは、それにふさわしい情緒に落ちこまず、笑いたくなくとも、先ず笑ってみるのがよいのだ。
 すると、その笑ったという行為が、不思議に人間のこころへ反応してくる。
(ここで死ぬのか……)
 と、おもうよりも、
(浦部が逃げ切ってくれるにちがいない)
 と、おもうほうが、いまの平蔵には有効適切なことはいうをまたない。
(よし、来い!!)
 呼吸がととのい、勇気がわき出てきた。
(鬼平犯科帳3「兇剣」より)

 父の墓参りがてら京都西町奉行所の同心、浦部彦太郎とともに京都・奈良を旅する平蔵が十余人の屈強な刺客に襲われて絶体絶命の危機に陥る場面。
 人間の心と体は常に連動していて気持ちが落ち込んでいる時は自然とそのような顔になっていたり前屈みの姿勢になっていたりする。そしてその体の状態がさらに心に反映してどんどん落ち込みを加速させていくことになる。しかし、落ち込んだ顔が心に反映するのならば、笑った顔も心に反映するということである。笑いたくなくても笑った顔を作ってみると不思議と心の中に明るい部分が生まれてくるものである。
 火付盗賊改方の長官・長谷川平蔵宣以は、その生いたちが生いたちだけに、
「四十をこえてみて、わしは、その二倍も三倍もの年月を生きて来たようにおもえる。さればさ、もう生きているのが億劫になった」
 と、妻女の久栄に、よく語りもらすことがある。
 つまり、それだけ多彩な人生を体験してきたからであろうが、いまになってみると平蔵、つくづくとこうおもうのである。
(つまりは、人間というもの、生きて行くにもっとも大事のことは……たとえば、今朝の飯のうまさはどうだったとか、今日はひとつ、なんとか暇を見つけて、半刻か一刻を、ぶらりとおのれの好きな場所へ出かけ、好きな食物でも食べ、ぼんやりと酒など酌みながら……さて、今日の夕餉には何を食おうかなどと、そのようなことを考え、夜は一合の寝酒をのんびりとのみ、疲れた躰を床に伸ばして、無心にねむりこける。このことにつきるな)

(鬼平犯科帳7「寒月六間堀」より)

 昼夜を分かたぬ盗賊との戦いの中で平蔵がふともらしたつぶやき。
 人が生きていくうえで確実なことはただひとつ。それは人はいつか必ず死ぬということだ。
「死」があって「生」がある。「確実に死ぬ存在である」ということを冷徹に受け止めるということは「生きている」ことをしっかり見つめ、今を懸命に生きることでもある。
 平蔵の日常やこうした考えとこのつぶやきは矛盾するようにもみえるが、その矛盾をかかえていることこそが、また人間ということで池波氏はこうしたことについて次のように書いている。

 人間は、生まれ出た瞬間から、死へ向って歩みはじめる。
 死ぬために、生きはじめる。
 そして、生きるために食べなくてはならない。
 何という矛盾だろう。
 これほどの矛盾は、他にあるまい。
 つまり、人間という生きものは、矛盾の象徴といってよい。
 他の動物は、どうだろうか。
 他の動物は、その矛盾を意識していない。
 だから、例外にしておこう。
 よくよく考えてみると、世に生まれ出たことが、
「厄災そのものですよ」
 といった知人がいるけれども、
「そんなことはありますまい」
 反駁できないおもいがする。だが人間はうまくつくられている。
 生死の矛盾を意識すると共に、生き甲斐をも意識する……というよりも、これは本能的に躰で感じることができるようにつくられている。
 たとえ、一椀の熱い味噌汁を口にしたとき、
(うまい!)
 と、感じるだけで、生き甲斐をおぼえることもある。
 愛する人を得ることもそうだし、わが子を育てることもそうだろう。
 だから生き甲斐が絶えぬ人ほど、死を忘れることにもなる。
 しかし、その生き甲斐も、死にむすびついているのだ。
 このように矛盾だらけの人間の世界は、理屈ではまかないきれぬ。むかしの人びとは、そのことをよくわきまえていたらしいが、近代の人間たちの不幸は、何事も理屈で解決する姿勢が硬直しすぎてしまったところにある。

(日曜日の万年筆「食について」より)



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