田中さんにネチネチいやみを言われる中村主水の図。



当時系列の社長会で、TBSの今道潤三社長から
「あのドラマは、最終的には主人公たちが全員殺されるべきものだ」と言われ、
池波正太郎サイドからもあまりに原作のテイストと乖離しているとの批判があり、
第二シリーズからは「仕掛人」のタイトルを返上し、
「必殺」という山内久司氏オリジナルの部分を生かして「必殺」シリーズとして続けられることになる。
この作品に携わり現在でも京都映画の中心スタッフである撮影の石原興氏、照明技術の中島利男氏、
編集の園井弘一氏らは、「必殺」のスタート当時ほんの若者だった。
松竹の下賀茂撮影所の閉鎖に伴い、大先輩たちが東京へ引き上げたり転業した結果、
世代的に大きな空白を生じ、
残った若者たちが「必殺」という大きな仕事を任されるチャンスを得た。
また当時斜陽化しつつあった映画界には倒産や本数の削減により優れた監督の体があいており、
藤原惟繕、深作欣二、三隅研次らの名監督が初めてのテレビ制作を楽しみながら番組づくりに加わったことで、
そこから若者たちは多くのものを学んだ。
また、当時の京都映画のオープンセットは手狭で粗末なものであったが、
その事がかえって彼ら若いスタッフのクリエイティブなものを引き出した。
照明の中島技師によれば、必殺特有の光と影を強調した劇画チックな照明も、
狭いオープンを生かすために工夫した逆転の発想。
暗い夜は暗くていいじゃないか、と開き直った上で、絞りを利かせながら、
明るい部分に思い切って光をあてる独特なライティングを生み出したという。
ただし、最初の試写には非難覚悟の背水の陣で臨んだという。
また、長いレンズを使っての撮影を石原カメラマンはマカロニウエスタンの手法というが、
一つには左右にカメラを振りにくいセット事情によるところも大きかった。
こうして家貧しき故の孝子たちによって、
<映画人にしてテレビのプロ>京都映画のスタッフ気質が育まれていった。
(参照:能村庸一「実録テレビ時代劇史」東京新聞出版局)

昭和47年に始まった「必殺 仕掛人」
緒方拳に、林与一、山村聰……
あ、まだ中村主水は出てないんですな、この時は。


もんどー無用、じゃ。ふふふ。


にゃにお?


ふふふ、中村さん、助太刀するよ。ボキボキッ。

ピー……



はい、チーズ!

(新必殺仕置人ヨリ)


(新必殺仕置人「夢想無用」より)

自分のこどもを宿し、ひたむきに慕うおたみとの生活を夢見て、
仲間からの足抜けを考えた正八からおたみを奪ったのは、
その仕事の標的・仁吉だった。
「仕事」を降りて新生活をしたいと夢見ていたときの仲間たちの対応、おたみが殺されてからの対応、
鉄や主水、松っあんたちの時に冷たく突き放し、時にあたたかく見守る姿は仕置人として矜持と責任と強い友情にあふれている。
敵を討ったあとのラストの海のシーン。
海を見たがっていたおたみとの人並みなしあわせな生活との訣別が
そのままもう後戻りできない真の仕置人のの世界へと足を踏み込んだことを表しているようでした。
胸がしめつけられる切ない気持ちが伝わってきて、……泣けました。