自分は自分のなかにある。

祖父も父も兄も歌舞伎役者。
自らも役者として生きる運命のもとに生まれた。
歌舞伎という伝統の世界で
自分の存在理由に疑問を抱いた日々もあった。
本当の自分を探す旅は、三六〇度まわる
自分への回帰の旅だったのかもしれない。
多方面で活躍を続ける二代目中村吉右衛門が
役者として生きてきた四十九年間を、
そして素顔の「自分」を語る。

「自分は何なのだろう?
若き御曹司の苦悩」


多くの人は、悩んだり迷ったりしながら、自分を形成していくのだと思います。
わたし場合は、ちょっと特殊かもしれませんね。まず、自分のフレームがある程度決められていた。
私は、生まれる前から二代目中村吉右衛門だったのです。
初代中村吉右衛門は、母の父にあたります。
一人娘である母を、なかなか嫁に出そうとしない祖父に、
母はこんな約束をしたそうです。
「男の子をふたり産んで、ひとりを里へ養子にだす」。
ひとえに母の執念でしょうね、見事、母は兄、
そして私を産み、二代目吉右衛門が誕生したわけです。
祖母が母で、母は姉、兄は甥…戸籍上のこととはいえ複雑。
気持ちは「果たして私はいったいだれなのでしょう?」です。
家でも、学校でも、世間でも、ありとあらゆることを言われましたし、
自分は何なのだろうという疑問はいつもありました。
ただ、自分は役者になるものだと思っていたし、思い込まされていた。
一種の洗脳ですね。
はからずも歌舞伎役者の家に生を受け、初舞台を踏んだのが四歳の時。
ほとんど覚えていないのですが、物心ついたころには役者をやっていました。
道が決まっていましたから、役者以外の世界で生きることはかんがえられませんでしたね。
それこそ宇宙に飛びだすようなもので、まったくのくらやみですから。
わずかでも光が見えて、勇気があったのなら飛びだしていたでしょうけれど、
そういう勇気は持ち合わせていなかった。
昭和三十九年ですか、
山本周五郎先生原作の「さぶ」を明治座で公演した時のことです。
主人公の栄次を兄(当時は染五郎)、私は、ぐずでのろまな三枚目のさぶを演じました。
今でこそ、お笑いの方はスターですけれど、当時、三枚目というのはスターの引き立て役。
二十歳になったばかりでしたからね。
女性を気にする年ごろですし、もてたい時期ですし、抵抗もありますよ。
ところが舞台は大成功で、笑われれば笑われるほど、落ち込みました。
三枚目が当たり役でどうするのだ、という気持ちもありましたし、
早く吉右衛門を継げる役者になりたいというあせりもあったんでしょうね。
行き場のない苛立ちをどうすることもできず、アルコールに助けを求めて、
ついには血を吐いて夜中に救急車で運ばれました。
自分を見失っていたんでしょうね。
若いころの悩みは、たいがいが自分は何なんだろうか、と考えてしまうわけです。
そのうっぷんをけんかで晴らす人もいれば、内にこめてしまう人もいて、
私は、どちらかというと後者だった。
自分を世の中から抹殺したい、自分の存在をなくしてしまいたい…
一時期は本当に思い悩みましてね。
アルバムの写真をどんどん破いて捨てて。
ですから、若いころの写真はほとんど残っていないんです。

「初代を越すのではなく、
二代目ならではの道づくり」

二代目中村吉右衛門を襲名したのは、昭和四十一年、私が二十二歳の時です。
とにかく継いだ以上は、吉右衛門という名前を汚さないようにと必死でしたね。
初代は天才的な人でしたから。
追いつこうと思って追いつけるものではない。
頭のいい人だったら、そんなの無理だと割り切って、初代とは違う方法と個性で、
と思うんでしょうけれど、とにかく踏襲しなければいけない、そう思い込んでいたんです。
初代の当たり役は、ほとんどが辛抱立ち役とか、地味で腹芸を要求される難しい役など。
そのなかのひとつに、熊谷次郎直実があります。
私が初めて熊谷直実を務めたのは、襲名から四年がたった時のこと。
初代のように、無情を感じた熊谷の心になりきって、舞台で泣くことなどできるはずもありません。
評判も散々でした。
何も初代と自分を比べることはなかったんです。
ところが、初代のことを書いた「中村吉右衛門」の年表に自分を照らし合わせてしまうんですね。
いくつでこの役をやったとか、いくつで座頭になったとか、
三十代なら三十代に、これをやらなくては、できるようにならなくては、とあてはめて。
比べることで、追いつこうとすることで、自分を探していたのかもしれませんね。
四十五年かかってようやく、役のなかに溶け込んで、涙を流せるようになってきました。
だからといって、初代に追いついたかといえば、追いつきも追い越しもしていないと思います。
初代は、人々の胸のなかに今でも生きている。
けれど私は、今、現実に生きていて、いろいろなことに挑戦できるわけです。
歌舞伎というのは伝統と古典の世界ですから、継いでいくということはひとつの使命ですが、
その時代、時代で新たなものも生まれていくはず。
初代とはまた違った部分で、残せる何かをつくれたらいい、今はそう思うんです。

「亀の甲より年の功、
五十を過ぎて見えてくるもの」


振り返ってみると、結局はいまだに自分は何なのか。
その疑問の答えは見つかっていないような気がします。
自分ではなかなかわからないものですよ。
自分はどういう人間か、どういう性格か、把握できてわかっていれば、こんなに楽なことはないです。
ことに役者というのはね。
理想としては、舞台に自分がいて、客席にも自分がいて、
リアルタイムで自分を見ることができたら、出演者と演出家を同時にできたら、一番いいわけです。
舞台で天才と呼ばれる人は、どうもそれができているんじゃないか、と思わせるフシがあるんですね。
自分をどこかで第三者として見ながら、幽体離脱でもしてるんじゃないかとおもうくらいに。
役になりきることは、我を忘れる、つまり自分を忘れることでしょう。
けれど、役者なんだから、演じるわけだから、あまりのめり込みすぎるのもいけない。
もう一人の、冷静な自分ができるまでには、まだ時間がかかるかもしれないし、
できるかどうかもわからない。
まだまだ、自分探しの旅は続くのでしょうね。
肩ひじはって、人生こういうふうに、と思ったところでその通りにはいかないわけです。
若いころには自暴自棄にもなるけれど、いくら自分を痛めつけたところで、悩んでみたところで、解決することでもない。
人生五十年、いろいろなことを繰り返してくれば、
何とはなしに見えてくることも、あるものですよ。
役者の着物を脱いだときは、絵を描いたりもしています。
手先を使うことは昔から好きで、今年五月に発行した「半ズボンをはいた播磨屋」の表紙や挿絵も自分で手掛けました。
この本では、育ての親ともいえるばあやのことを書きたかったんです。
ばあやは、私が二十一歳の時に亡くなったのですが、そのショックは大きかったですね。
ばあやの死が襲名のきっかけにもなりましたし、一番の頼り、母性を失ったことで、私も少年から青年に、それなりの男になれたのかもしれません。
ばあやの思い出を記すことは、自分を振り返ることにつながりました。この本が、五十歳を境にした私の新たなる出発になってくれれば、こんなにうれしいことはないですね。(談)

1993年(平成5年)10月1日金曜日朝日新聞広告特集より


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