播磨屋、中村吉右衛門




 中村吉右衛門は生まれるとすぐに母方の祖父の養嗣子となった。
初代中村吉右衛門の名跡を継ぐためである。
 それは一人娘だったお母さんが先代の松本幸四郎氏と結婚するときからの約束であった。
 生まれたときからお母さんは戸籍上はお姉さん、兄(今の松本幸四郎)は甥。
そんな環境の中で彼は中村吉右衛門の後継者として育てられた。
 先代の名前の大きさに悩み、かっこいい兄との差に苦しみ、
アルコールにおぼれて血を吐き、救急車で運ばれたこともあったそうだ。
 自分の存在を世の中から消してしまいたいと思い悩んでアルバムの写真を片っ端から焼いて、
だから若い頃の写真はほとんど残っていないという。
 22歳で2代目中村吉右衛門を襲名して、名前を汚さないように、初代の年表に自分を照らし合わせて、
これをやらなくては、できるようにならなくては、とあてはめて比べることで、
追いつこうとすることで自分が何者かを探していたのかもしれない。
と今の吉右衛門は振り返っている。
「45年かかってようやく、役の中に溶け込んで、涙を流せるようになってきました。
だからといって、初代においついたかといえば、追いつきも追い越しもしていないと思います。
初代は、人々の胸のなかに今でも生き続けている。けれど私は、今、現実に生きていて、いろいろなことに挑戦できるわけです。
歌舞伎というのは伝統と古典の世界ですから、継いでいくことがひとつの使命ですが、
その時代、その時代で新たなものも生まれていくはず。
初代とはまた違った部分で、残せる何かをつくれたらいい、今はそう思うんです」
 先代幸四郎のシリーズが終わって2代目鬼平は是非、と請われるも固辞。
 丹波哲郎、萬屋錦之介と続いた後に4代目長谷川平蔵中村吉右衛門が誕生するのだが、
「鬼平犯科帳」の中で平蔵がみせるやさしさ、こわさ。それは悩んで苦しんで自分探しの旅を続けた末に、
まわりまわって自分らしい鬼平、吉右衛門の鬼平にたどり着いたところからにじみだしてきているものなのかもしれない。


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