宮沢賢治「春と修羅」A
ひかりはたもち
直流電流は電池やバッテリーなどの電流。
交流電流はコンセントにつないで使う電流である。
コンセントは家の前の電線につながっていて、その電線からはまた他の家庭やさまざまな店、工場などにそれぞれの線が出ていてそれぞれの人が使っている。家の前の電線はまた他の電線、そしてより大きな線につながり、そしてその大きな線からは他の電線がつながり、そこから・・・というように我が家のコンセントというのは大きな電流を伝えるネットワークにつながっているうちのひとつということである。
また、直流というのはあるきまった方向に流れる電流で波形はずっとまっすぐつづいているが、交流は一定時間ごとに方向を変える電流で0を境にして+と−をくりかえしながらつづいていく。
「有機交流電燈」「因果交流電燈」という賢治によってつくられた言葉はこうした交流と直流の違いからイメージされたもののように思える。
+と−、生と死。
「せはしくせはしく明滅しながら」人間、動物、植物、などなどそれらあらゆる有機生命体の大きなつながりのネットワークの中で「わたくし」もその中の「ひとつの青い照明」としてつながっている。
直流の電池を使った懐中電灯はそれだけで単独にどこへでも持っていって使える存在だ。
だが、電池がきれれば光も消える。
ひかりはたもち その電燈はうしなはれ
交流電燈の青い照明はあらゆるものの因果関係のかかわりの中で現象としてその時その時の光を発している。たしかなようにみえるけれどそれは「いかにもたしかな」ものである。しかしその電燈がなくなったあともそこには新たな光がともりつづける。
余談
いったん照明から出た光は、その後、光源となる照明のあるなしにかかわらず直進する。
夜空を見上げるとたしかに星はちかちかとまたたきながらそこにあるけれど、その光は実は星から出てから長い間かかってとどいたものである。
肉眼でも見えるもっとも遠い星、アンドロメダ銀河のM31だと一秒間に30万キロ進む光が210万年かかってたどりついた過去の姿をみていることになる。
見ている時点でその星が本当にそこにあるのか消えてしまっているのかはわからない。
しかし見ている人にとってそれはたしかに「ある」し、見ている自分もいて、なにがしかの思いを胸にだいたりもする。
ほんのわずかな一部分を見ている人の目にとどかせたその光は、その時にそれを見た人がいなくなったあともそれにかかわりなく飛びつづけていく。
余談の余談
懐中電灯でも電池が切れたら新しい電池に替えればつくじゃないのだって?
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