お盆休みあたりから正岡子規の本を読んで勉強中です。
「正岡子規」ドナルド・キーン
読んで気になったトコロなど、備忘録としての自分メモメモ。
9・25
明治二十九年(1896)発表された子規の新体詩「父の墓」
父の墓前に詣でんと
末広町に来てみれば
鉄軌寺内をよこぎりて
墓場に近く汽車走る。
石塔倒れ花萎む
露の小道の奥深く
小笹まじりの草の中に
荒れて御墓ぞ立ちたまふ。
見れば囲ひの垣破れて
一歩の外は畠なり。
胸つぶれつつ、見るからに、
あわてて草をむしり取る
わが手の上に頬の上に
飢ゑたる薮蚊群れて刺す。
□□□
文明の器械は多くは不風流なもので歌には詠みにくいが、もしこれを詠もうとするならば趣味あるものを配合するほかない。それを何の配合物もなく「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景極まりない。せめてレールの傍らに菫が咲いているとか、汽車が通りすぎた後で□粟(けし)が散るとか、薄がそよぐとかいうように他の物を配合すれば、いくらか見よくなるというものである。(キーン氏約)
新体詩も書いていた子規。俳句に新しい言葉やカタカタを使う時にも通じるような。
◇◇◇
9/18 正岡子規絶筆三句
「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」
「をととひのへちまの水も取らざりき」
「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
9/19 1時ごろ絶息が確認される。
今日は中秋の名月で満月だけでなく、子規忌でもあるわけか。
9・10
写実、写生の観点から蕪村をとりあげた子規。とりあげなかった句もある。
春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉
(句の音が句の意味と一体になっているような俳句)
離別(さら)れたる身を□込(ふんごん)で田植哉
(泥田に浸かって田植えに精を出している女と、たぶん傍らに女を離縁した夫がいる。
女は客観的に描かれているが、蕪村はまちがいなく女に同情を覚えている)
御手討の夫婦なりしを更衣(ころもがえ)
(蕪村は複雑な背景を十七文字で語ってしまうことがあった)
□□□
子規は、蕪村の俳句におけるこれらの重要な要素については論じないことにしたのだった。
蕪村から自分が必要としたものーすなわち写生に秀でた句だけをとり、あとは無視した。(キーン氏)
「あえて」無視したんだね。
9/9
芭蕉はたとえば夏の時期の紀行である「奥の細道」に出てくる句のように、
夏を舞台にした素晴らしい俳句を作っている。
しかし芭蕉の夏の句に出てくる花々の多くは単に季節を示すためのもので、本来の関心の対象ではなかった。
これと対照的に蕪村が俳句で花に触れる場合は、その花でなければならない独特な何かを掴まえたからだった。
牡丹散つて打ち重なりぬ二三片
子規がこの句に魅かれたのは、それが牡丹の散る有様を客観的に捉えていたからだった。
□□□
これはいいですね。散る有様をとらえていると同時に牡丹という花の構造や咲き方までここから浮かんでくるみたいです。
9/3)
元禄五年(1692)、芭蕉の弟子の各務支考は「葛の松原」の中でこう書いている。
(・・・蛙の水に落ちる音が時折するので、風情に打たれて、中七・下五の「蛙飛びこむ水の音」が出来た。
傍らにいた弟子の其角が、上五に「山吹」はどうかと勧めたが、宗匠はただ「古池」とした)
(口語訳キーン氏)
8/30
第六章「写生」の発見より
新聞「日本」の社員になってから子規の俳句批評は毎月定期的に登場し、
読者の心に俳句の重要性を定着させることになった。
俳句を詠むことは、もはや俳人やその弟子に限られたものでなく、
その楽しみは遥かに大勢の新聞購読者によって共有されることになったのだ。
明治二十五年(1892)六月から十月の間に子規が「日本」に発表した随筆は、
「川獺祭書屋俳話」という題で明治二十六年に出版された。これが、子規の最初の本となった。
8/21
日清戦争の従軍を熱望した子規だが、広島で派遣を待つうちに休戦条約が結ばれた。
明治二十八年(1895)四月十日、清国へ渡り陣中日記を連載。
「新聞特派員が最下層の兵隊と同等とみなされたことは、子規を常に苛立たせることになる。」
雛もなし男ばかりの桃の酒
(広島で渡航の許可を待つ間の句)
春の海?が浮いておもしろや
(渡航する船が対馬沖を通る時にカモメの光景から出来た一句)
三崎山を越えて谷間の畑をたどれば石磊磊として菫やさしく咲く髑髏二つ三つ
肋骨幾枚落ち散りたるははや人間のあはれもさめてぬしや誰とおとずるるものもなし。
なき人のむくろを隠せ春の草
帰国する途中鱶が見えるという声に甲板に上がって痰を吐くと喀血が再発した、
というはなしは坂之上の雲でも印象的なシーンだったが、
その後港についてからコレラ患者が出て一週間下船の許可がおりず、子規の病状は悪化した。
ようやく神戸病院に運ばれて一命をとりとめる。そのままだったら、
俳句、短歌の革新は幻に終わっていたということか。
8/20
なにかの奇跡が起こって自分が病床を離れることが出来たら何が一番見てみたいか、
子規は新しい東京で見たいもののリストを作っている。そのリストの中には
活動写真、自転車の競争および曲乗り、ビアホール、女剣舞、および洋式演劇、
海老茶袴の女学生の運動会、等々があった。
「海老茶袴の女学生の運動会」に、イイネ!
8/19
契約社員のような形で新聞「日本」で仕事を始めた子規が、
芭蕉の更級紀行の道をたどった「かけはしの記」や俳句批評獺祭書屋俳話などの好評で
母や妹も呼び寄せて正社員扱いになった明治二十五年(1892)12月1日の前日、
軍艦千島が四国の伊予沖で沈没し、七十四名の犠牲者が出た。
子規は新聞記者の立場で、時宜を得た俳句を作った。
もののふの河豚にくはるる悲しさよ
ん?季語は河豚でいいのかな?
8/16
1892、二月二十九日。子規はは上根岸町八十八番地に引っ越した。
陸羯南が子規のために隣の家を探してくれたのだが、
引っ越した家は汽車が一時間ごとに通りその度に家が地震のように揺れた。
その時に作ったうちの一句。
その辺にうぐひす居らず汽車の音
芭蕉の古池や、を連想して思わずニヤリ。
2013.8.15
1888
中でも子規の養祖母(曾祖父の後妻)について詠んだ次の俳句で、
この老女は血のつながりはなかっったが子規に特別な愛情を注いだ。
我幼少の時より養育せられし老嫗のみまかりしとききて涙にむせひける
添竹の折れて地にふす瓜の花
@@@
卯の花を めがけてきたか 時鳥(ほととぎす)
卯の花の 散るまで鳴くか 子規(ほととぎす)
1889、五月九日。突然喀血した子規はその夜四五十の発句を作り、
この時はじめて血を吐くような声で鳴くほととぎすをあらわす子規の号を使った。
卯の花は季節が五月で卯月だったこともあるが、
卯年生まれでもあった子規は、自分の運命に重ね合わせた花が死を歌う鳥に脅かされているものとして描いている。
その後回復に向かい東京に戻った子規を見舞った漱石は手紙でも帝大病院で診断、入院することをすすめた。
漱石は手紙の最後に英語で
to live is the sole end of man!(生きることは人間の究極の目的!)と書き添え、次の二句を記している。
帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
聞かふとて誰も待たぬに時鳥
2013.8.14
最初に活字になった子規の句は、
虫の音を踏わけ行や野の小道
1887松山に帰省して大原其戒に自作の十句を見せて其戒の主宰する雑誌に取り上げられた。
送り仮名をどう書くかでも印象が違ってくるね。
2013.8.13
子規メモ
坂の上の雲では英語が苦手キャラの子規だが、
ぜんせんやってないー、と言いながら「絶対やってる」タイプの実はできるクララタイプだった。
Basho as a Poet (1892)より
We shall try to translate some of Basho's poems words by words
(neglecting the metre & rhyme) to show the Japanese rhetoric as follows:
(It must be understood that in Japanese sentence,especially in "Hokku".
personal pronouns and predicate verbs are often omitted).
The old mere!
A frog jumping in,
The sound of water.
芭蕉の詩のいくつかを韻律など無視して逐語訳し、
日本の修辞法の何たるかを次に示してみたい。
−ただし日本の文章、特に発句では人称代名詞や述語動詞が
よく省略されることを承知しておいてほしい。
古い池!
蛙が飛び込み、
水の音
古池「や」を「!」に訳しているところが面白い。
切れ字は感動や疑問を表していて、その句の感動の中心はなんですか、
という時には切れ字のあるとこを書いとけ!ってトコロ。
適当な英語としては「!」「?」なんだな、やはり。
しかし「!」と較べて、「や」なんたる趣と余韻。
子規メモ
すぐ泣いて泣き味噌弱味噌と呼ばれた子規だが、
いじめの最初の原因は処之助という名前でトコロテンと言われたこと?
2013.8.10
休み中に読了予定。
写生を極めた子規の指導を受けた虚子やへきごとうだが、
鶏頭の十四五本もありぬべし
は自分が編纂した子規の句集に入れなかったという。
失敗作という人あり、絶賛する人あり。
背景になにを見るのか、想像する楽しみ、というのがあるんだね。
ちなみに百田尚樹さんの本を検図書館de索してみたんだけど、
永遠の0が、17冊所蔵に対して172件の予約が入ってた。
お盆だからなぁ、と思って海賊と呼ばれた男みたら、
593件。エントリーあきらめました。