紫微斗数と十八飛星策天紫微斗数 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今回は紫微斗数について書いてみます。既にご存知かも知れませんが紫微斗数には、「紫微斗数」と書くものと紫薇と微の時に草冠を付けた「紫薇斗数」と表記するものがあります。 結論から書きますと、紫微斗数と草冠を付けないのが一般的であり、紫薇斗数と草冠を付けるのは、透派という特定の流派のみです。無論、原書である「紫微斗数全書」にも草冠はついていません。 さて、この紫微斗数と紫薇斗数の異なる点は名称だけではなく、作盤法等にも相違があります。したがって、人によっては紫微と紫薇では異なる命盤となってしまう場合があります。これは、作盤の際に利用する月を紫微斗数の場合は旧暦の月を用い、透派の紫薇斗数の場合干支暦の月、つまり節気を用いることの差異によっての生じます。 旧暦は、日本では明治以降に使用されなくなりましたが、台湾や韓国等ではまだかなり幅をきかしている暦です。旧暦では、2年から3年の間に1回閏月というものが発生します。つまり1年が13ヶ月ある年があるのです。この為、明治政府は閏月を無くせば公務員の月給が、その分すくなるなるという理由で現在の西暦(グレゴリオ歴)に改めたというのは有名な話です。 この閏月ですが、例えば5月が終わった後に閏の5月が入って5月を2回繰り返すようなことをします。この閏の月に生まれた人の場合、流派によっても異なりますが、一般的に前半の15日に生まれた人は5月生まれ、後半の15日以降に生まれた人は翌月の6月生まれとするのが、一般の紫微斗数のやり方です。この閏月の処理の方法がすっきりとしていない感じるのが、おそらく普通の感覚でしょう。この為に、この閏の月の処理方法に流派によって異説があるわけですが、結論、どの方法をとってもすっきりと解決できません。この点を面倒くさい閏月の処理が発生しない節気を使用したのが透派です。 この方法は一見納得がいくのですが、生まれ月は節気を利用し生まれ日は旧暦を利用するという点に疑問があると主張する人もいます。どちらが正しいかは検証して結論を出すしか無いのですが、どちらの派の方も自分の方が当たるといって譲りませんから、今後も結論が出ることは無いでしょう。 さて、随分と前置きが長くなってしまいました。本題に入りましょう。実は紫微斗数にはもう1つの紫微斗数が存在します。これを「十八飛星策天紫微斗数」といいます。(以下、十八飛星と略します。)一般の紫微斗数を南派紫微斗数、十八飛星を北派紫微斗数とよび、一般の紫微斗数とは異なり中国北方で伝承した紫微斗数の流派といわれます。 この十八飛星策天紫微斗数は、台湾でも伝承者が少なく文献もわすがしか存在しません。 以下に、西洋占星術・七政四余・十八飛星策天紫微斗数・紫微斗数の12宮を並べてみましょう。
ご覧いただければお解りと思いますが、七政四余と十八飛星の12宮は西洋占星術と酷似しています。これはこの二占術がインドから伝わった占星術の12宮をそのまま踏襲しているからでしょう。これに対して紫微斗数の12宮は独特の配列になっています。 七政四余の原書の1つである「星平海会」には、太陽系の実星以外に多くの虚星を記載しており、その中に紫微星の記載がみえます。このことから、紫微斗数は七政四余から発展したものと言われています。これに加えて上記の12宮の配列の異同から、十八飛星策天紫微斗数は、七政四余から紫微斗数への過渡期的な占術であるとする見方もあります。 しかしながら、紫微斗数が世に出たのは明代1550年に発行された「紫微斗数全書」からであり、宋代の仙人陳希夷の18代目の子孫と称する羅洪先なる人物の編纂とされています。しかし、創始者を宋代の陳希夷とされているものの、事実上紫微斗数は宋代にまとまったとするより、この明代に集大成されたとする考証家も多いようですし、自然な見方といえます。一方、「十八飛星策天紫微斗数全集」が発刊されたのは清代の1870年であり、なんと300年以上の隔たりがあり、むしろ十八飛星の方が紫微斗数よりも随分後に公になっています。自然に考えると、十八飛星から紫微斗数へと発展したと考えるより、紫微斗数を参考に十八飛星がまとめられたと考えるほうが自然であるように思います。 また、紫微斗数が七政四余から発展した占術だという論拠は、上にも記しましたように星平海会に紫微星の記載があることですが、実は星平海会よりも古い「果老星宗」には紫微星の記載が無いのです。このことから、紫微斗数が七政四余に影響を与えて、紫微斗数の虚星の一部が七政四余に混入したとの仮説も考えられます。 以上のような点から、七政四余→十八飛星策天紫微斗数→紫微斗数と発展したという説は、まだまだ検証が必要だと思われます。 |