信仰に関係する話題
Vol.1
神様を愛しましょう
神様を愛しましょう。神様は決して遠い世界の想像上の産物ではありません。イエズスは2000年前に生きていたが今は死んでしまった方ではありません。
イエズスは今ここに私たちの間に生きているのです。私たちが喜んでいる時、悲しんでいる時、笑っている時、怒っている時、いつも隣にいます。
神様を遠い昔の人だと考えるのはやめましょう。今生きておられる方です。
(1996.9.12)
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中絶について
中絶について私たちはもっと真剣に考え、そして祈らなければならないと思います。決して中絶は遠い世界の出来事でもなく珍しいことではありません。
私は何度も頼まれて人間ドックに行ったことがあります。女性の問診票を見て驚くことは、人工流産をしたことのある人が非常に多いことです。40から60代の女性で中絶をしたことのある人は半数以上いや7,8割はいます。勿論市民検診などではなくある病院で行っている人間ドックですから、すべての女性の半数以上が中絶をしたことがあるというわけではありませんが、決してどこか遠くでたまに行われているようなことではありません。
産む権利だ何だと言われますが中絶は明らかに殺人であって、この日本において知らない間に無抵抗の胎児に対して大量虐殺が行われていると言えるでしょう。
私たちはこの問題に対して何か手を打たないといけません。
この殺された殉教者たちの永遠の安息のために、また不幸にしてこの罪を犯してしまいその心の傷で苦しむ人々のために祈り、そしてこのような罪がこれ以上犯されないように、社会全体に対して働きかける必要があります。欲望を刺激するだけで何の益もない下らない雑誌やテレビは何とかならないものでしょうか。また妊娠してしまったけれども産み育てることが出来ない人のために養子制度などの中絶をせずに済む制度を整える必要があると思います。
(1996.9.12)
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父親になって思うこと(その1)
父親になったことは大きな恵みでした。
それは神様の想いがわずかですが、分かる気がするからです。
生まれて間もない頃、赤ん坊は自分では何もできません。全て親の手が必要です。乳を飲ませてもらい、おむつを替えてもらい、お風呂に入れてもらい、自分一人では生きてはいけません。 何もできませんが、その存在だけで親にとっては大きな喜びです。ただ目を開くだけでも、ただ手を握ったり開いたりするだけでも、その動作一つ一つが親にとって喜びとなります。
神様にとって私たちも同じです。私たちも神様無しに何もできません。しかし私たちの存在だけが、神様の喜びとなるのです。私たちが朝目が覚める、食事を食べる、お風呂に入る、私たちがとくに何も思っていなくても、この動作の一つ一つは私たちの父である神にとって愛らしく喜びであると思います。
やがて赤ん坊はにっこり笑うようになります。寝返りをするようになり、ハイハイするようになります。 ハイハイでどこかから落ちてあるいは何かが落ちてきてけがをしては大変です。 赤ん坊は何でも口に入れてしまうから特に気管に詰めてしまいそうな大きさのものには気を付けなければ行けません。 このように赤ん坊を危険から遠ざけるために親はいろいろと気を配ります。
神様にとって私たちも同じです。私たちがまだ信仰において赤ん坊である間、神様は私たちの周りから様々な誘惑を遠ざけ守って下さいます。
生まれて10カ月くらいになるとつかまり立ちをするようになり、一歳を過ぎると一人で歩くようになります。そしてヨチヨチと危なっかしく走るようになります。しかしすぐに転んでしまいます。少し引っかかるところがあると転び、何もないところでも転んでしまいます。親は目が離せません。つまづきそうな床に転がっているおもちゃを片づけて、そして走っている時には注意を払います。
神様にとって私たちも同じです。自分では風を切って走っているつもりでも、神様から見るとよちよち歩きです。神様はいつも私たちがつまづきそうなものをあらかじめ取り除き転んでしまって罪につまづかないように気を付けていて下さいます。しかし不幸にして私たちが罪に転んでしまったとしても、すぐに助け起こして下さいます。
(その2、その3へと続きます。)
(1996.9.19)
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父ちゃん、兄ちゃん、愛ちゃん、母ちゃん
私たちの主イエズスは父なる神を「アッバ」とお呼びになりました。この「アッバ」について聞いた説明では、このことばは「お父様」とか「父上」などのように堅い呼び方ではなく、「父ちゃん」という言い方なのだそうです。
そこで父なる神に祈るとき、「天に在すわれらの父よ」という呼び方でなく、「父ちゃん」とときどき祈るようになりました。この呼び方をすると神様が非常に近く感じられると思いませんか? 「父ちゃん」「父ちゃん」「父ちゃん」と何度も呼んでみて下さい。
そして主イエズスを「兄ちゃん」と呼びます。人類の長子であり、私たちの兄弟である主はまさに「兄ちゃん」です。
そうするとマリア様は「母ちゃん」です。幼子が転んでしまって泣きながら「母ちゃーん」と追いかけているところを想像してみて下さい。
さてそうすると残るのが聖霊です。どう呼ぼうかと考えているときに思いついたのが「愛ちゃん」です。(神様の働きの中で愛のわざは特に第三のペルソナである聖霊の働きとされるのでしたっけ。要理をまた勉強しないといけませんね。)
「愛ちゃん」という呼び方はぴったりだと思いませんか。
こうしてあるときは「母ちゃん」に抱っこされながら祈り、ある時は「お兄ちゃん」と手をつないで歩き、ある時は「愛ちゃん」を呼び、「父ちゃん」にお願いするようになりました。
でも最近はどの呼び方もすっかりしなくなってしまいました。
そのひとつの理由は恥ずかしながら私が神様と親しく語ることをしないからです。
そしてもう一つの理由は、家で子供達が私を「父ちゃん」と呼び(奥さんは私を「お父さん」と呼ぶ)、同じく子供達がお母さんを「母ちゃん」と呼び(私は「お母さん」と呼ぶ)、長男をときどき「お兄ちゃん」と呼ぶため、非常に紛らわしくなってしまったからです。
どなたかこの呼び方を使ってみませんか。
(1996.9.19)
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(結婚されてる)皆さん、教えて下さい
何を教えて頂きたいかというと、家族でそして個人での祈りはどうしているのですか。 私の場合、大学時代は平日のミサも大学の帰りに北浜教会によく行きましたし、家でも毎日祈りの時間を持っていました。 しかし働きだして大学病院での研修医時代は帰るのはいつも11時は当たり前で、家に帰るともう寝るだけ。日曜日のミサも仕事でいけなかったりあるいは簡単にさぼってしまうようになりました。大阪府立病院にいた頃は週に1度それも何時間かの間だけ洗濯のために下宿に帰る以外には毎日病院に住み込んでいましたから(まさに24時間働いていました)、ミサもよく休みましたし、めったに祈らないようになってしまいました。
そして結婚しましたが、奥さんは初めは信者ではありませんでした。結婚してから毎週日曜日のミサには必ず行くようになりましたが、家族で一緒にする祈りは全くありませんでした。個人的に祈る時間が欲しいととても思いましたが、一人だけ部屋にこもるわけには行きませんし平日の御聖体訪問も時間的に難しく難しく結局は個人的にもめったに祈らない状態でした。
そして長男の大輔が洗礼を受けた頃から家族皆で食前の祈りをするようになりました。そして長男に遅れること1年あまりで奥さんが洗礼を受けました。しかし今も毎日の祈りといえば食前の祈りぐらいしかしていません。
そこで皆さんにお聞きしたいのです。特に結婚されている方は、家族皆での祈りをどうしているのか、また個人的な祈りはどうしているのかを教えて下さい。
また仕事が朝早くから夜遅くまでの方はどの様に祈りを工夫されているのですか。
大聖テレジアは念祷をやめることがいかに神の恵みを失うかを述べていますが、皆さんはどうされているのでしょうか。
結局は本人のやる気があれば、あとは聖霊が導いて下さるでしょうから、本当に祈る意志があるかどうかの問題だとは思いますが、皆さんのことを教えて下さい。
参考になるものをこのページでも紹介したいと思います。
(1996.10.5)
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魅力のあるミサ
魅力のあるミサづくりということを耳にしますが、何かおかしい気がします。今のミサには魅力がないのでしょうか。たしかにラテン語でミサが行われていたときに比べ(といっても実際にラテン語のミサにあづかったことはなく、CDなどで聞くだけですが)、神聖で荘厳な”雰囲気”は薄くなってしまったかもしれません。しかしミサにおいては主の御受難、御死去そして復活が今私たちの目の前で再現されています。まさに「信仰の神秘、主の死を思い復活をたたえよう、主が来られるまで」と歌いたくなります。
本当は魅力に満ちているミサに魅力がないと思うならば、その一番の原因の一つが要理教育の不足,習慣化した生温さ,神への無関心ではないでしょうか。
ミサで拝領する御聖体とは何でしょうか。主ご自身です。パンの形色のもとに隠れていながら本質は主ご自身です。
天地万物を創造された宇宙の王である主が、かつては無力な赤ん坊の姿でこの世に来られたように、今は小さなパンの形を取って私たちの間に来られ、世界中のあらゆる所で小さな御聖櫃の内に留まっているのです。そして被造物である私たちの口の中に入り食べられてしまうとはなんと不思議なことではないでしょうか。なんと神の愛と謙遜は不思議なのでしょうか。
(御聖体については、この汲み尽くすことの出来ない恵みをまたこのコーナーかどこかで少しづつ取り上げてみたいと思います。)
ミサの魅力を発見するために、いろいろな機会(ミサの説教や黙想会など)にこの神秘を耳にすることが出来ればいいと思います。
(1996.10.5)
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マラナタ
今日のミサの閉祭の歌は「マラナタ」でした。
マラナタ、マラナタ、主の御国が来ますように。
本当にその通りです。マラナタ!主よ来て下さい。
マラナタ! 主よ私の心に来て下さい。
私の心の中で、王として君臨して下さい。
マラナタ! 主よ私の家庭に来て下さい。
私の妻と子供を祝福して下さい。
マラナタ! 主よ私の職場に来て下さい。
まだあなたを知らない人たちの所へいらして下さい。
マラナタ! 主よ私の住む町、この関西、この日本、全世界にいらして下さい。
私たち人類はすっかり神を離れてしまったのではないかと思うことがあります。どんどん神から離れていきます。富に対する欲望、不正、弱い者を抑圧し、自己中心主義、神ではなく科学を信仰し、無神論がはびこり、もう人類は自分で方向転換をすることが出来ません。
マラナタ! 主よ私たち人類の所へいらして下さい。そしてもう一度あなたの道を教えて下さい。あなたの道を示して下さい。
(1996.11.3)
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皆様からの投書をお待ちしています。宛先はこちらです。
最終更新日 1997.3.12