私たちの信仰

私たちカトリック信者が信じる神と人間の救いに関する教えの大要は、使徒信経にあります。
そして最後に紹介する「パウロ六世教皇による神の民の信仰宣言」は、教皇パウロ六世が、信仰の年の結びとして、1968年6月30日に「至聖なる神と、わたしたちの主イエズス・キリストのみ栄えのために、またおとめ聖マリアと、使徒聖ペトロ、聖パウロのおん助けに信頼しながら、教会の利益と教化のために、すべての牧者とすべての信者を代表し、私たちすべてと完全な霊的一致のうちに」なさった信仰宣言です。

使徒信経

 われは、天地の創造主、全能の父なる天主(てんしゅ)を信じ、またその御(おん)ひとり子、われらの主イエズス・キリスト、すなわち、聖霊によりて宿り、童貞(どうてい)マリアより生まれ、ポンシオ・ピラトの管下にて苦しみを受け、十字架につけられ、死して葬られ、古聖所(こせいじょ)にくだりて、三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて、全能の父なる天主の右に座し、かしこより、生ける人と死せる人とを裁かんために来たりたもう主を信じたてまつる。
 われは聖霊、聖なる公教会、諸聖人の通功(つうこう)、罪のゆるし、肉親のよみがえり、終わりなき命を信じたてまつる。 アーメン。

信仰宣言

われは信ず、唯一の神、
全能の父、天と地、見ゆるもの、見えざるものすべての創り主を。
われは信ず、唯一の神、神の御ひとり子イエズス・キリストを。
主はよろず世のさきに、父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神。
造られずして生まれ、父と一体なり、すべては主によりて造られたり。
主はわれら人類のため、またわれらの救いのために、天よりくだり、聖霊によりて、おとめマリアより御体を受け、人となりたまえり。
ポンシオ・ピラトのもとにてわれらのために十字架に付けられ、苦しみを受け、葬られたまえり。
聖書にありしごとく、三日目によみがえり、天に昇りて、父の右に座したもう。
主は栄光のうちにふたたび来たり、生ける人と死せる人とを裁きたもう、主の国は終わることなし。
われは信ず、主なる聖霊、生命の与え主を、聖霊は父とことよりいで、父と子とともに拝みあがめられ、また預言者によりて語りたまえり。
われは一・聖・公・使徒継承の教会を信じ、罪のゆるしのためなる唯一の聖霊を認め、死者のよみがえりと、来世の生命とを待ち望む。 アーメン。

パウロ六世教皇による神の民の信仰宣言


尊敬する兄弟たちと愛する子らよ

 わたしはペトロにキリストがゆだねられた命令、すなわちわたしの兄弟たちを信仰の点で固めるという命令を遂行しなければならないと思っている。その命令によってわたしの精神に刻印されたすべてのカに支えられて、ここに一つの信仰告白を行ない、一つの信条を公にする。この信条は、厳密な意味での教義上の定義を述べるものではなく、神の聖なる教会が有している不滅な伝承の信条であるニケア信条を、現在の精神的状況によって引き起こされたある進展に応じて、本質的な点で繰り返すものである。
 この信条を述べるにあたり、わたしは信仰について現代の一部の人ぴとを動揺ざせている不安があることを知っている。かれらは、多くの真理が論争されたり論議されたりしているこの激しく変動する世界に、影響されているのである。
 わたしは教会の魂である聖霊とキリストの神秘体の生活を支えている信仰に不動の信頼を置いている。かつてフィリッポのカイザリアで、便徒ペトロが十二人のかわりに、キリストが生ける神の子であるという真の信仰告白を行うために声をあげたのと同しく、今日そのペトロのつたない後継者であリ、また神の民全体の司牧者であるわたしが、すべての民に伝えるべきものとして教会にゆだねられた神的真埋について、堅固な証しをたてるために、ここに次の信仰宣言をする。

信仰宣言

唯一の神 わたしたちは、過ぎゆく生活がいとなまれるこの見える世界と、天使と呼ばれる純粋な霊のように見えないものとを、そしてまた各人の霊的で不滅の魂とを創造された唯一の神、父と子と聖霊を、信じる。
 この唯一の神がその無限に聖なる本質において、そのあらゆる完全牲、全能、無限の知識、摂理、意志と愛において、絶対に唯一であることを信じる。

愛の神 神は、「有りて有るもの」であり、「愛」である。実に「有るもの」と「愛」というこれらふたつの名は、自らをわたしたちに知らせることを望み、「近づけない光の中に住んで」いて、そうしてすべての名にまさるものであり、創造されたあらゆる事物とあらゆる知性を超えるものである神の神的現実そのものをみごとに表わしている。神のみが、自らを父と子と聖霊として啓示することによってご自身についての正しい知識をお与えになることができる。わたしたちはこの神の永遠の生命にあずかるよう、恩恵によって招かれている。その招きは、この地上では、信仰という暗さのうちに、死後には永遠の光のうちになされる。

三位一体 唯一の神的実在である三つのペルソナを永遠に構成する相互の絆は、人間の尺度で測り得るすべてのものを無限に超える神の聖なるもっとも奥深い至福の生命を生みだす。多くの人々が、たとえ至聖なる三位一体の秘義を知らなくても、神が唯一であることについてわたしたちとともに人々の前に証しを立てうることを、いつくしみ深い神に感謝する。永遠に御子を生む御父と、永遠に生まれる神のみことばである御子と、創られざるペルソナであり御父と御子の永遠の愛として両者から発出する聖霊を信じる。こうして、「ともに永遠で、ともに等しい」この三つの神的ペルソナの中では、完全に「唯一」である神の生命と至福が満ちあふれている。そして常に、「三位の中に一致が、一致の中に三位があがめられるべきである」。

救い主イエズス・キリスト わたしたちは、神の子であるわたしたちの主イエズス・キリストを信じる。主は時が始まる以前に御父から生まれた、永遠のみことばであり、御父と実体をひとつにしていて、かれによって万物が創られたのである。かれは聖霊のカにより処女マリアから受肉し、人となられた。したがってかれはその神性においては御父とひとしいものであり、その人性からすれば御父より下にあるが、そのふたつの本牲は混同されることなく、そのただひとつのペルソナによって、唯一のおん者である。
 イエズス・キリストは恩恵と真埋に満ちてわたしたちの中に住まわれた。かれは神の国を宣べ伝え、建設し、自らにおいて御父を知らされた。かれはご自分がわたしたちを愛されたように、わたしたちが互いに愛し合うよう、新しい掟をわたしたちに与えられた。かれは真福八端の道を教えられた。それは、心の貧しさ、柔和、苦しみを忍耐強く耐えること、義に飢え渇くこと、あわれみ、心の清さ、平和への望み、義のために追害を耐え忍ぶことである。かれはポンシオ・ピラトのもとで、世の罪を自らの背にになう神の小羊として苦しみを受け、わたしたちのために十字架上で死に、そのあがないの血によってわたしたちを救われた。かれは墓に葬られ、自分自身の力で三日目によみがえり、その恩恵によって神の生命にあすかるように、わたしたちを引き上げてくださった。かれは天にのぼり、ふたたび来られる。その時には栄光をおびて、生ける人と死せる人とを裁くために。人はその時、おのおの自分の功徳に従って−神の愛とあわれみに答えた者は永遠の生命に入り、その神の愛とあわれみを終わりまで拒否した者は消えることのない火の中へ行く。そしてかれの国は終わることがない。

聖霊 わたしたちは、主であり生命の与え主である聖霊、御父と御子とともに礼拝され賛美される聖霊を信じる。聖霊は預言者を通して語られた。聖霊はキリストが復活して御父のもとにのぼられた後、キリストによってつかわされた。聖霊は教会を照らし、生かし、保護し、導かれる。聖霊は教会の民が聖霊の恩恵を拒まなければ、かれらを清められる。

聖母マリア わたしたちは、マリアが終生処女であり、受肉したみことば、神である救い主イエズス・キリストの母であることを信じる。この特異な選びによってマリアが、自分の自分の尊い御子のいさおしのために特にすぐれた恵みによってあがなわれ、原罪のあらゆる汚れに染まらぬようあらかじめ守られ、他の全ての被造物よりも大きな恩恵の賜物に満たされていることを信じる。
 緊密で解き得ない絆によって受肉と救済の秘技に結ばれた汚れなき処女マリアは、その地上での生涯を終えたとき、その魂も体も天上の栄光にあげられ、その昇天した御子に似て、全ての義人の将来の分け前をあらかじめ受けられた。神のこの聖なる母、新しいエバ、教会の母がキリストの民に対して天上で母の役割を果たし続けておられると信じる。彼女は実に、救われた人間の魂の中に神の生命が生まれ、成長することに協力しておられるのである。

原罪 わたしたちはアダムにおいてすべての人間が罪を犯したことを信じる。すなわちアダムの犯した原初の罪が、万人に共通の人間性を、その罪の諸結果をになう状態、人祖が初めにあったような聖性と義のもとに立てられていたときとは異なる状態、また、人が悪も死も知らなかったときとは違う状態に落とし入れたことを信じる。すべての人に伝えられたのは、このような状態に落ちこみ、それまでいただいていた恩恵を奪われ、その自然の力をそこなわれ、死の支配のもとに従属させられた人間の本性である。すべての人が罪の中に生まれるということはこの意味においてである。したがって原罪が「同じ行為を繰り返すということからではなく、生まれながらにして」人間性とともに伝えられること、そして原罪が「各人にまつわるもの」であることを信じる。
 わたしたちは主イエズス・キリストが十字架の犠牲により、原罪と、各自が犯すすべての罪からわたしたちを救われたことを信じる。
 こうして使徒パウロのことばどおり、「罪が増したところには、それ以上に恩恵が増した」のである。

洗礼 わたしたちは主イエズス点キリストが罪の許しのために制定された唯一の洗礼を信じる。洗礼は、まだ私罪を犯すことが出来ない小児にも授けられなければならない。それは、子供が超自然的恩恵を奪われて生まれるので、キリスト・イエズスにおいて神の生命に「水と聖霊によって」再生されるためである。

教会 わたしたちはイエズス・キリストがペトロという岩の上に立てられた、唯一、聖、カトリック(普遍)、使徒伝承の教会を信じる。この教会はキリストの神秘体である。それは位階的機関をもつものとして制定された、見える社会であると同時に、霊的共同体である。それは、地上における教会、この地上における旅する神の民であり、また天上の祝福に満たされた教会である。それは、神の国の芽ばえと最初の結実であり、それを通して救済の働きと苦しみが人類史を通じて続けられ、時間を越えた栄光における完成を目指す。時の流れの中で主イエズスは、ご自分の満ちあふれるところから流れ出る諸秘跡によって、ご自分の教会を形成される。教会はこれらの秘跡をもって、生命と発展を与える聖霊の恩恵によって、自分の民をキリストの死と復活の秘義にあずからせる。教会が自分のふところに罪人を抱えているとはいえ聖であるのは、教会自身が恩恵の生命しかもたないからである。教会の民が聖とされるのは、その生命により生きることによってである。もしその教会から離れるならば、罪と汚れにおおわれ、教会の聖性の輝きが妨げられる。教会はこれらの罪のために苦しみ、償いを行うが、それは教会がキリストの御血と聖霊の賜物を通してその罪から自分の子らをいやす権能を有しているからである。
 教会はイスラエルの聖書を愛を込めて保持し、イスラエルの太祖や預言者を敬ってきた。教会はそのイスラエルを通して神の約束の相続者であり霊による娘である。教会は使徒たちの上に建てられたものである。それは使徒たちの生きる言葉と司牧者としての諸権能を、ペトロの後継者およびかれとの交わりを保つ司教において、幾世紀にわたって次々に伝えてきた。また教会は、絶えず聖霊の保護を受けて、神が預言者によっておおわれたままにされ、主イエズスによって十全的に啓示された真理を保持し、教え、説き明かし、広める責務を負っている。わたしたちは、書かれた(聖書)、伝えられた神の言葉(聖伝)の中に含まれているもの、又、教会が神から啓示された事柄を荘厳な宣言か通常の教導職かによって提示するすべてを信じる。ペトロの後継者が全信者の司牧者と教師として荘厳な宣言をもって教えるとき、かれが不可謬であることを信じる。また司教団がこのペトロの後継者とともに最高の教導職を行使するときにも不可謬性が保証されていることを信じる。
 イエズス・キリストによって建てられ、そのために彼が祈られた教会が信仰、礼拝、位階的交わりの絆の点で、全く唯一であることを信じる。
 この教会のふところの中にある典礼祭儀の豊かな多様性、神学・霊性上の遺産と特殊な規律のしかるべき多様性は、教会の一致を損なうにはほど遠いものであり、その一致をいっそう明らかなものとしている。
 またキリストの教会の組織の外に、本来教会に属し、カトリック的一致を目ざす真理と成聖の要素が数多く存在することを認めながら、またキリストの弟子たちの心の中にこの一致に対する愛を呼び起こす聖霊の働きに信頼しながら、まだ唯一の教会と完全な交わりをもっていないキリスト者たちが、ただ一人の「牧者」をいただくひとつの群にいつかふたたび一致することを期待している。
 わたしたちは教会が救いのために必要であることを信じる。なぜなら、ただ唯一の仲介者であり救いの道であるキリストが、ご自分の体である教会の中に現存するからである。しかし神の救いの計画は、すべての人間を包み込んでいるので、本人の側に落ち度がないままにキリストの福音ならびにその教会を知らずにいてなおかつ誠実な心をもって神をさがしもとめ、また良心の命令を通して認められる神の意志を恩恵の働きのもとに実践しようとしている人は−その数は神のみに知られているが−救いに達することが出来る。

聖体・ミサ聖祭 叙階の秘跡を通して受けた権能によってキリストの代理者である司祭が執行し、またキリストとその神秘体の民の名で捧げるミサ聖祭が、祭壇の上に秘跡的に現存するカルワリオの犠牲であることを信じる。主が最後の晩餐において聖別されたパンとぶどう酒が、十字架上で人間のために捧げられた主の御体と御血に変わったのと同じく、司祭によって聖別されたパンとぶどう酒が、天上で栄光を受けたキリストの御体と御血に変わることを信じる。また、聖体における主の秘義的現存が、真の、現実的で、実体的な現存であることを信じる。
 キリストがこのようにこの秘跡の中に現存なさることは、ただ、人間の五官が受け取るパンとぶどう酒の形色がそのまま残りながら、パンの実体そのものがキリストの体に変化し、ぶどう酒の実体そのものがキリストの御血に変わることによって可能である。このことを教会は「実体変化」と呼んでいる。この秘義についてある程度理解しようとする神学上の説明はみな、カトリックの信仰から外れないために、その現実自体においては、人間のとらえ方に依存することなく、パンとぶどう酒は、聖別後にもはや存在しないと主張しなければならない。したがって聖別の時からパンとぶどう酒のもとに現実にあるのは、主イエズスのあがむべき御体と御血であり、それは主が食物としてご自分を与え、ご自分の神秘体の一致に私たちを結びあわせるために望まれたとおりであると主張しなければならない。
 天国における栄光の主の唯一の分かち得ない存在は、秘跡によってその数を増すのではなく、ミサ聖祭が行われる地上の多くの場所に、その秘跡によって現存されるのである。そしてこの現存は、ミサ聖祭の後で、聖なる秘跡の中に、すなわち各教会の生ける心臓である聖なる秘跡の中(うち)に、聖櫃のなかで、現存し続ける。そして目で見る聖なるホスチアの中に、天から離れ去ることなしに現存するものとなった、目で見ることの出来ない受肉したみことばをあがめ礼拝することは、きわめて甘美な義務である。

神の国 わたしたちはこの地上でキリストの教会において始められた神の国が、過ぎ去るこの世のものではないと宣言する。教会独自の発展が、文明、学問、人間的技術の進歩と混同されるべきではない。かえってそれは、キリストの測り知れぬ富についていっそう深い知識を得ること、永遠の幸福を絶えずいっそう強く望むこと、神の愛に絶えずいっそう熱心に答えることまた人々の中で恵みと聖性を絶えずいっそう寛大に授与することによると宣言する。しかしこの同じ愛が、人々の真の現世の福祉についても絶えず配慮するよう教会を導いている。教会はさらに、この地上に永続する住みかを持たないことを自分の子らに絶えず思い出させるとともに、各自自分の召された身分と有している手段に応じて自分たちの地上の社会の福祉に貢献し、人々の間に正義と平和と兄弟愛をおしすすめ、兄弟たち、特にきわめて貧しい者と最も不幸な人々に惜しげなく助けの手を伸ばすように激励している。したがってキリストの浄配である教会が人々の必要、人々の喜びと希望、悲しみと努力に対してもっている大きな心づかいは、キリストの光をもって人々を照らすため、また人々をみなその唯一の救い主であるキリストにおいて集め、その人々とともにいるためである。

永遠の生命 わたしたちは永遠の生命を信じる。キリストの恩恵をもって死ぬ全ての人の魂が、あるいは煉獄で清められる必要があっても、あるいは自分の肉身を離れる瞬間からイエズスがよき盗賊になさったように楽園に取り上げられようとも、死を越える永遠において神の民であることを信じる。これらの魂がその肉身と再び一致する復活の日に、死は決定的に征服されると信じている。
 わたしたちは天国においてイエズスとマリアとともに、集められた人々の群が天の教会を形成していることを信じる。かれらがそこで永遠の幸福のうちに神をそのままに見、そしてそれぞれの形で、栄光のうちにキリストが行使される支配のもとに聖なる天使たちに結び合わされ、わたしたちのために取りなし、その兄弟的配慮をもってわたしたちの弱さを助けていることを信じる。

聖徒の交わり わたしたちはキリストを信じる全てのもの、すなわち地上で旅するもの、自分の清めを受けている死者、また天国の至福にあずかっている者たちが、皆ともに一つの教会を構成していることを信じる。またこの交わりにおいては、イエズスが「求めよ、そうすれば与えられる」と告げられたとおり、神とその聖人たちがあわれみ深い愛をもってわたしたちの祈りに耳を傾けていることを信じる。このようにわたしたちは信仰と希望を持って死者のよみがえりと来世の生命を待ち望むのである。
 三位一体の聖なる神がたたえられますように。アーメン。

1968年6月30日 バチカンの大聖堂において
                 教皇パウロ六世

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