聖体奉仕会(秋田のマリア)について




このページは私濱田洋一が全く個人で作ったものであり、このページの内容について一切の責任は濱田個人にあります。(しかしながら一応内容に問題がないことは聖体奉仕会に原稿を送り見ていただきました。)

聖体奉仕会とは

 そのパンフレットから紹介します。

 正式な名称は、聖体の秘跡にましますイエズスの聖心の奉仕者の在俗会です。
 (The Secular Institute of the Handmaids of the Sacred Heart of Jesus in the Holy Eucharist.)
 神の光栄と人々の霊魂の救いのため、御聖体のうちにまことにましますイエズスの聖心への愛の奉仕をもって使徒職とする、女子の在俗会である。
 現代社会の急速な進歩により、人々が聖なるものから遠ざかり、社会の世俗化が進む中にあって、会員は聖マリアに倣い、祈りと償いの生活にはげみ、社会の良きパン種として、世俗を内部から、聖化する使命をもっている。
 従順、貞潔、清貧の三誓願による奉献生活をなし、支部会員はそれぞれの場で職業に従事しながら福音宣教を心がけ、本部会員は祈りと償いの共同生活を行いながら、巡礼者、黙想者に奉仕する。
 全会員は年二度の黙想会をもって、姉妹の交流・一致を深め、霊的糧を確保する。
 なお、誓願によらぬ一般信徒のための準会員制度もあり、誓願者会員と祈りで結ばれ、各自の能力を活かしつつ、御国の到来を目ざしてつとめ、励むものとする。

聖体奉仕会の祈り

 御聖体のうちにまことにましますイエズスの聖心よ、一瞬の休みもなく全世界の祭壇の上に犠牲(いけにえ)となられ、御父を賛美し、み国の来たらんことをこいねがう至聖なる聖心に心を合わせ、わが身も心も全くおんみに捧げ奉る。願わくは、わが貧しき捧げを受け取り、御父の光栄と霊魂の救いのために、み旨のままに使用したまわんことを。
 幸いなる御母よ、おんみの御子より引き離さるるを許したまわざれ、おんみのものとして守りたまえ。 
 アーメン。

聖体奉仕会で起こった不思議な出来事

(現在執筆中です。しばらくお待ち下さい。それまでは鈴木さんのホームページに紹介されていますから、そちらをご覧下さい。)

マリア様からのメッセージ

 マリア様からのメッセージは3つありました。

最初のメッセージ(1973.7.6)
「私の娘よ、私の修練女よ、すべてを捨ててよく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐して下さい。最後の試練ですよ。
 手の傷は痛みますか。人々の罪の償いのために祈って下さい。ここの一人ひとりが、私のかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さあ一緒に祈りましょう。…(聖体奉仕会の祈りを一緒に唱える。)…
 教皇、司教、司祭のためにたくさん祈って下さい。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん、唱えて下さい。今日のことをあなたの長上に話して、長上のおっしゃるままに従って下さい。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ。」

第2のメッセージ(1973.8.3)
「私の娘よ。私の修練女よ、主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、私の話を聞きなさい。これは重大なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。
 世の多くの人々は主を悲しませております。私は主を慰めるものを望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。
 おん父がこの世に対して怒り給うておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に大いなる罰をくだそうとしておられます。おん子とともに何度も、そのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりを捧げて、お引きとめしてきました。
 祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも私はそれを望んでいます。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈って下さい。聖体奉仕会の祈りを心して祈り、実践して、贖罪のために捧げて下さい。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。
 在俗会であっても祈りが必要です。もはやすでに祈ろうとする霊魂が集められています。形にこだわらず、熱心をもって、ひたすら聖主をお慰めするために祈って下さい。
(ちょっと間をおいて)
 あなたが心の中で思っていることは、まことか? まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしている私の修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしいものとなるために、3つの釘で十字架につけられる心をもって誓願をたてなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから。」

最後のメッセージ(1973.10.13)
「愛する娘よ、これから私の話すことをよく聞きなさい。そしてあなたの長上に告げなさい。
 前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人とともに、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。
 その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えて下さい。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈って下さい。
 悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協するものでいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。
 特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。
 勇気をもって、あなたの長上に告げて下さい。あなたの長上は、祈りと贖罪のわざに励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから。
 あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされているものと、あなたの長上に従いなさい。
 ロザリオの祈りをたくさん唱えて下さい。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしによりすがるものは、助けられるでしょう」

教会の態度は?

 このような出来事に関して教会の判断は、地元の教区長に委ねられています。
 そして使徒ヨハネ 伊藤庄治郎 新潟司教は1984年4月22日に司教書簡「秋田の聖母像に関する書簡」を出され、ここで起こった一連の現象の超自然性を公認されました。これはとりも直さず全世界のカトリック界に公認されたことになります。
全文を引用すると長くなりますので、最後の部分だけ引用します。
(全文はこちら。)

『(省略)
1.これまで調べたところによると、秋田市添川湯沢台の聖体奉仕会の聖母像に関する一連の不思議な現象に、超自然性がないと否定することはできません。また、信仰と道徳に反することを見いだすこともできません。
2.従って、ローマ聖座より最終判定が示される時まで、本教区内において、秋田の聖母に対して崇敬をあらわすことを禁じません。
 なお、ローマ聖座が秋田の出来事に肯定的判定を示したとしても、これは私的啓示であって、信じなければならない義務はありません。この義務のあるのは公的啓示(これは最後の使徒の死をもって終わっている)だけです。この中に救いに必要な全ての啓示が含まれています。しかし教会は、これを助けるものとして私的啓示も重んじてきました。
 参考のためカトリック要理の次の文章をつけ加えます。
「聖人、天使は神のみ旨にかない、すぐれた恩恵と光栄を受けていますから聖人、天使を崇敬するのは正しいことであって、それはまた、神ご自身に賛美と感謝とを捧げることにもなります。聖人のうち、聖母マリアは特別に崇敬されます。それは聖母が神である救い主の御母であるとともに、私たちの母でもあり、全ての聖人、天使にまさって、神の恩恵に満たされ、常に母として私たちのためとりなして下さるからです。」
(カトリック要理 改訂版 72頁)
「キリストまた聖人のご像やご絵を崇敬するのは信心を助けキリストまたは聖人を尊ぶためです。これは同時に神への賛美にもなります。」(旧版カトリック要理 170頁)

 終わりに皆様の上に神よりの豊かなお恵みを願い司教掩祝をおくります。

1984年4月22日復活祭
  新潟司教 使徒ヨハネ 伊藤庄治郎』

聖体奉仕会の住所


 聖体奉仕会本部を訪れてみたい方のために紹介しておきます。
 010 秋田市添川字湯沢台1
 0188(68)2139
 JR秋田駅からバスまたはタクシー。

終わりに濱田洋一から

 この出来事(マリア様が秋田の聖体奉仕会で一人のシスターに現れ、メッセージを託し、また聖母像から涙がながれたことなど)は、あくまで私的啓示ですから(公的啓示と区別して)、信じるか否かは、個人の自由にまかせられています。信じて信仰の助けとすることもできますが、信じないからといってとがめられたり罪になることはありません。
 マリア様はイエズスの母であり、神の母、教会の母、そして私たち一人一人の”母ちゃん”ですから、私たちが罪におぼれた生活をしていれば、必死になってその改心を涙ながらに訴えられるのではないでしょうか。人間でさえ、自分の子どもが非行に走れば、どれほど心配し、なんとしても非行の道から引き離そうと涙ながらに説得するのではないでしょうか。
 わたしはこれまでに4回しか聖体奉仕会を訪れていませんが、いつも世界各国から巡礼者が訪れ、熱心に祈っている姿を目にすることができますし、実際に私はここを訪れることで洗礼を受ける恵みを頂きました。このようにその”実”から判断することもできると思います。
 しかしながら一般的には、このような出来事(つまりキリストが現れた、マリア様が現れた、あるいはメッセージが与えられたなど)に対しては、非常に慎重に対処すべきだと思っています。
 つまり最近一部でみられる、教会の教えにはずれたマリア信心、具体例を挙げればリトル・ペブルとその一派などは、カトリックの教えに反しているのみならず、マリア様を利用して(マリア様の名をかたり)教会にたてついていますから、正しくマリア様を信心しようとしている私たちにとっては、不愉快きわまりないものです。(これについては1988年に出されたマリア様への正しい信心について日本カトリック司教団が出した文書をまた紹介したいと思います。)

 このページが、秋田での出来事を広く知らせ、皆様に考えていただく機会となればうれしいと思います。
 またこのような出来事は有名なところではルルドやファチマ、メジュゴルイエ、隣の韓国のナジュでもありました。ルルド、メジュゴリエについては別のページで紹介しています。皆様からのこのページに対する反応を見て、これらの出来事も紹介するかもしれません。

すべては神の御光栄のために、しかして霊魂の救いのために! アーメン

参考文献:「現代の奇跡 秋田の聖母マリア −聖母像の涙とメッセージ−」
      (著者:安田貞治 発行所:聖体奉仕会)

最終更新日 1997.10.21