日本カトリック司教団教書

聖母マリアに対する崇敬

−1987年「マリアの年」にあたって−


目次

1.神のおん子・救い主イエズスの母マリア

2.救いのわざに協力するマリア

3.教会の母マリア

4.聖母マリアに対する崇敬

5.聖母への正しい崇敬を高めよう


 教皇ヨハネ・パウロ2世は、今年1月1日のミサの説教の中で、6月7日の聖霊降臨の祭日から来年8月15日の聖母マリアの被昇天の祭日までを「マリアの年」とすると発表されましたが、さらに3月25日に公布された回勅「救い主の母」で、「マリアの年」制定の意図を説明されました。
 それによりますと「間もなく迎える西暦二千年はキリスト生誕二千年を記念する聖年に当たります。この歴史的な時期を実りある恵みの時とするために、母としてイエズスの救いのわざに協力し、教会の誕生にあたっても母のように使徒たちを助けて、聖霊の降臨を祈ったマリアが、いま新しい世紀に向かっている神の民の歩みを確かなものとしてくださるよう、マリアへの崇敬を深めましょう」といっています。

 そのために教皇は、カトリック教会の伝統的なすぐれた聖母崇敬を、第二バチカン公会議の教えに従って実践し、特に典礼を通して、また各種の信心行事をもって表すよう勧めています。わたしたち日本の司教団も同じことを勧めたいと思います。特に今年は福音宣教推進全国会議開催の年にあたっていますので、聖母に対する崇敬を通して、福音の教えを正しく悟り、生活の中で信仰を生き、人々の救いに協力する姿勢が確立されるよう願っています。

1.神のおん子・救い主イエズスの母マリア

 ナザレのおとめマリアは、神のおん子であるイエズスの母であるという意味で「神の母」と呼ばれます。父である神はおん子の受肉によって人類の救いを達成しようと望まれたときから、マリアをその救い主の母としてお選びになりました。「あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その名をイエズスとつけなさい」(ルカ1・31)。マリアは、深くへりくだりながら信仰をもって承諾し、「お言葉の通りこの身になりますように」とお答えになりました。こうして神のおん子は、われら人類のため、またわれらの救いのために聖霊によっておとめマリアから体を受け、人となられました。

 このマリアとイエズスとの母子のつながりは、イエズスの受胎から十字架の死にいたるまで現れます。幼年時代ばかりでなく、公生活中、救いのわざが続けられる間、マリアは信仰をもっておん子のあとをたどり、十字架のもとでは母の心をもっておん子の奉献にご自分を合わせておささげになりました。

2.救いのわざに協力するマリア

 母マリアは神の救いの恵みを完全に受け入れた方であるという意味で、救い主キリストの協力者です。マリアは特別の選びによって、「神の霊的祝福にあふれたかた」「恩恵に満ちたかた」「女のうちで祝福されたかた」ですが、それは神の救いが申し分なくマリアにおいて実現したからであります。マリアはご自分に告げられたことが、成就すると信じたしあわせな方です。

 マリアは神のみ言葉に完全に聞き従った方であるという意味でも、キリストの働きの協力者です。イエズスの誕生にまつわるすべての出来事を、ことごとく心に留めて思いめぐらし、カナの婚宴では給仕たちに「なんでもこの人の言うとおりにしなさい」と指図して、メシアとしてのキリストの最初のしるしが行われるよう、おはからになりました(ヨハネ2・1-12)。マリアこそ天の国の言葉である種がまかれたよい土地、教えを聞いて悟り百倍の実を結んだ方です。イエズスの母や神の言葉の第一の実践者、救いの教えの最高の理解者だったのです。

 母マリアは、イエズスの奉献に合わせてご自分をささげたという意味でもまた、救いの協力者です。誕生40日目のイエズスが神殿で奉献されたときにも、ゴルゴダで十字架のもとに立たれたときにも、おん子の愛と苦しみに母の心をもって結ばれておられました。マリアは人間に可能な限りキリストの救いのわざに協力されたのです。

 このようなマリアの協力は、満ちあふれるキリストの功徳から流れ出て、キリストの仲介に全く依存するものであり、キリストの救いのわざそのものと同等の価値を持つものではありません。マリアはおん父のお定めのもと、キリストの望みに従って、信仰と愛から、自発的に、同意をこめて、そのおそばにつきそわれたのです。

3.教会の母マリア

 ヨハネ福音書によると、イエズスは愛する弟子と一緒に立っておられるマリアに「婦人よ、この人はあなたの子です」と、また弟子には「この方はあなたの母です」と仰せになりました(19・26-27)。そしてこの愛する弟子はマリアを自分の家に引き取りました。そしてこのことはイエズスの母マリアがわたしたちの母となり、教会の母ともなられたことを教えるものです。じっさいマリアは使徒たちが約束の聖霊を待っていたとき、聖霊が与えられるよう、彼らとともに祈り求めました。

 聖母はわたしたちが教会共同体の一員として生まれるよう、愛をもって協力されるばかりでなく、わたしたちの霊的成長を助けてくださいます。秘跡の恵みを生活の中で生かすことができるよう、わたしたちのために祈り、母としての配慮をしてくださいます。

 マリアは信仰の旅路を進む教会、悔い改めと刷新の努力を続ける教会の希望の星です。ただわたしたちばかりでなく、まことの救いを探しているすべての人に対しても母の心をもって取りなしておられます。

4.聖母マリアに対する崇敬

 カトリック教会は古代から神の母マリアに対し特別の崇敬を表してきましたし、今日に至るまでマリアを特別に賛美し続けています。「今からのち、いつの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」とご自身で予告なさったとおりです。

 日本の教会の信者も聖母マリアと深いかかわりを持っています。聖フランシスコ・ザビエルが宣教者として日本の地に上陸したのは1549年8月15日「聖母被昇天」の日でした。聖人は日本の国を聖母に奉献しました。長い迫害の間苦しみと戦う信者たちの信仰を鼓舞したのも、暖かく優しい母マリアの姿でした。19世紀半ば、再宣教を試みて沖縄に来たフォルカード神父は1844年5月1日、沖縄と日本を聖母の汚れないみ心にささげました。そして十年後の1865年長崎の大浦天主堂に現れた数人の信者は母マリアへの崇敬をもって自分たちの信仰のあかしともしました。

 聖マリアに対する崇敬は、父なる神とおん子イエズス・キリスト、聖霊に対する礼拝とは全く違います。マリアは神ではなく、すべての造られたもののうち最もすぐれた方なのです。わたしたちがマリアを崇敬するのは、マリアが神の恩恵を特別にお受けになった方だからであり、「わたしの魂は神を崇め、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえ、おどります。力あるおん者が、わたしに偉大なわざをなさったからです」(ルカ1・47-55)と歌ったマリアと共に神の栄光を賛美し、その救いの恵みを感謝するためなのです。

 教会は第二バチカン公会議の典礼刷新にそって聖母に対する崇敬を典礼のなかで表します。まず典礼の暦を見ると、主キリストの救いの出来事が一年を通して記念されますが、その記念を行うなかで、わたしたちはマリアも同時に記念されていることに気づきます。なぜならマリアはキリストの救いの神秘に密接に関わっておられるからです。また教会はおん子の死と復活の恵みを第一にいただいたマリアの恩典を祝い、キリスト信者の生活の手本としてたたえます。無原罪や被昇天の祝日などがそうです。

 聖母マリアの祝日は一年を通じてほとんど毎月祝われます。さらに毎土曜日も伝統的に聖母にささげられています。

 典礼ばかりでなく、いろいろの信心業によっても聖母マリアをたたえます。なかでもロザリオの祈り、お告げの祈り、聖母の連願、聖母月の行事は個人でも家庭でもやさしく実行できます。ロザリオでは「めでたし」の祈りを母マリアとおん子イエズスの姿を思い浮かべながら、くりかえし心にしみこむように唱えます。

 このような信心と合わせて、聖母の巡礼地への参詣、聖母行列などが行われます。からだを使って尊敬を表すのも、ごく自然な信心の方法だと言えます。

5.聖母への正しい崇敬をたかめよう

 第二バチカン公会議後、聖母崇敬がかつてのように盛んでなくなった反面、暗い印象を与える、しかも誇張されたマリア信心が広がっていることも事実です。この両極端を避けて正しい、真にキリスト教的なマリア崇敬を実践することをわたしたちは願っています。

 正しい聖母崇敬とは、マリアの信仰、希望、愛の態度にならいつつ、キリストの救いのわざを記念し、祝い、生きることを目指します。

 最近各地で聖母マリアの出現やいわゆる“ふしぎな現象”が起こったなどというニュースが、うわさや文書をもって伝わってきます。マリアのメッセージといわれる内容のものをくわしく記したものもあります。

 マリアが特定の人を通してメッセージを伝えるということはあり得ますし、教会がその中のあるものを慎重に調査して、それが真に超自然的なものか否かの結論を出すこともあり得ます。しかし、わたしたちは教会の結論を待たずに軽々しく、自分の主観だけで判断し、人々に広めることはさし控えなければなりません。

 聖女ベルナデッタがルルドで聖母マリアから救いのメッセージを受けたことは、教会の中でよく知られています。教皇、司教達もルルド巡礼をします。しかしそれでもルルドの出来事は「私的啓示」に属するものであって、決して信仰箇条ではありません。すでに教会がキリストから使徒を通して受けた公的な啓示に新しいものを付け加えるものではないのです。すべての「私的啓示」はただ、キリストと教会の教えのある点をとくに思い出させ、より真剣な信仰生活を送らせるための勧告の役割を果たすものなのです。わたしたちは教会で認定された私的啓示を大切にするとともに、その限界も知るべきです。

 わたしたちがマリア崇敬を通して受けることのできる恵みは、明るく希望にあふれたものです。救い主キリストに対する信頼と平和、罪の痛快と新しい生き方への回心を促すものです。反対に罪の罰や地獄の恐れをちらつかせて、信者の心に不安や恐怖を引き起こすようなものは、真のマリア崇敬ではありません。神はひとり子を与えるほど、この世を愛されたのであり、マリア崇敬はこの愛にわたしたちを引きつけるものだからです。

 現代人は今、様々の不安におそわれています。核戦争の恐れ、国際間の不信、失業、将来の見通しの暗さ、理由のない差別、世代間の無理解、孤独感など。またしっかりした倫理観・価値観を認めないために良心の安らぎを持てなくなっていることなどです。

 このような現代特有の不安と悩みにいっそう輪をかけ、さらにそれを利用して新宗教を宣伝することが、流行のようになっていますが、聖母に対する崇敬も同方向のものと誤解されないよう、万全の注意をはらう必要があります。

 最後に聖母崇敬の望ましいあり方をまとめてみます。

一、主イエズス・キリストこそわたしたちの唯一の仲介者です。マリア崇敬はわたしたちを一層キリストに近づけ、さらに父と子と聖霊の神に近づけるものであることを、はっきり認識すること。

一、聖書とくに福音書から、キリストの母として果たされたマリアの役割を学び、それを黙想しながら、幼な子の心で聖母との親しさを深めること。

一、教会の伝統的な聖母信心、典礼や祈り、行事は聖書の教えから生まれており、それと結ばれています。わたしたちの信心も教会の信心を基準にして行うこと。

一、聖母に対する感情豊かな愛の表現、大衆の心にふれる信心を軽視してはならないと同時に、一人よがりの信心、自己満足を求める信心、教会の主流から離れる信心は避け、また特に、聖母信心をいわゆる“ふしぎな出来事”と結びつけようとする傾きには警戒しなければならない。

一、子供たちや若者の胸に聖母の姿がきざみこまれ、また家庭の中でマリアが夫婦・親子の団らんのなかにおられる、そのような姿こそが教会の願いなのです。

命、喜び、希望であるマリア、

 福音宣教の使命を自覚し、救いの恵みを日本の同胞に伝えるわたしたちに、

  あなたのおん子イエズスを示してください。アーメン。

1987年8月15日

日本カトリック司教団