「キリスト者のための終末期治療および看護に関する要望書」

解説

松本信愛

 この「要望書」は、原案は筆者が4年ほど前に作成したものであるが、3年前から、日本カトリック医師会大阪支部の例会にて幾度か検討し、訂正を加えていったものである。できれば、これを全国的に利用していただき、死の準備教育のきっかけの一つにでもなればと期待してここに解説を付けて公表させて頂く。このような「要望書」は、実際にそれが必要となったときにあわてて書くのではなく、むしろ健康なときに作成することによって、日頃から死について考え、より有意義な生を送るために役立てて頂きたい。

項目ごとに線で囲った本文を載せ、その下に解説を加えていく。最後に「要望書」の全体をそのまま掲載するので、コピーして利用していただきたい。

キリスト者のための
終末期治療および看護に関する要望書

 このタイトルは、二転三転してこのように落ち着いた。まず、「ターミナル・ケア」とか「リビング・ウイル」というカタカナを意図的に避けた。そして、内容からいって、「宣言書」ではなく、あくまでも「要望書」であると考えた。さらに「要望」の内容は「治療」だけでなく「看護」にも亘っているということをタイトルに表した。

 この要望書は、キリスト信者が少ない日本の現状を考えて、「キリスト者用」と「一般用」の2種を準備している。両者の違いは1頁目(表紙)だけで、他の頁は全く同じである。「キリスト者」も「そうでない人」も、同じ人間なのだからむしろそれで当然であろう。キリスト者が他の人々と違うところは、次の項目に要約してあるように、この要望書を書くときの「根拠」の違いである。もちろん根拠が違えば具体的な対処も違う人々がいて当然であるが、少なくとも、この「要望書」を利用しようと考える人々は根本的な大きな違いがない人々を想定している。当然、「一般用」はタイトルから「キリスト者のための」を外す。

私は、人の命は神様からの贈りものであり、聖なるものであると考えていますが、この地上での命は、人にとって最高のものでも、絶対的なものでもないということを知っています。また、死はこの地上での命の終わりですが、それで全てが終わるのではなく、神の国での終わることのない命へと続いていることを信じています。もし私に死が迫ったときには、私が自分の信仰の光の下に、キリスト者としてふさわしく死を受け入れることができるように助けて下さい。

 「キリスト者のための」要望書と「一般用」の違いは、この文章が入っているか否かのみである。ここに、キリスト者としての「命」に関する考え、「死」の意味するもの、「来世」への希望等を述べ、キリスト者としてより大切にしていること、最も望んでいることが何であるかをはっきりさせることによって、以下の要望の根拠とした。

この「要望書」には、私が現在の医学では回復の見込みがない状態になったときや、私に死が迫ったときのための要望が記されています。私は、そのような状態になったときも、尊厳性を保って人間らしく一生を全うしたいと望んでいます。関係者の皆様が、この世における私の最後の望みを聞き入れて下さいますようにお願いいたします。

 「尊厳性を保って人間らしく一生を全うしたい」というのが、この要望書の主旨である。また、依頼の仕方としては、「私は以下のことを宣言します。」という「宣言書」タイプや、アメリカなどでみられる「医師への指示書」というタイプよりも、「一生のお願いだから」「後生だから」という依頼の仕方の方が、日本的で、このようなケースではかえって力があると考えられるので、「この世における私の最後の望みを聞いて下さい。」という「要望書」とした。

 「一般用」の要望書には、この文章を罫線で囲んで表紙の中央へ持ってくる。

(氏 名)            印(    年   月   日生)

(住 所)〒

(電 話)                 

(署名年月日)      年   月   日

 自分の署名捺印は要望書の最後に来る形も考えられるが、その重要さと、この「要望書」が誰のものであるかということを一目瞭然に分かるようにするためにも表紙へ持ってくるのがよいと思われる。

終末期治療および看護に関する要望書

(以下の全ての項目において、該当する番号に 〇 、該当しない番号に × を記し、必要に応じて空欄に手書きすること)

 該当する番号を選ぶ場合、もし「〇」のみを記して「×」を記さなければ、後から(誰かが)印の付いていない番号に「〇」を入れた場合それを見抜くことができなくなるので、念のために、常に「該当しないもの」にも「×」を記すこととした。

1)病名・病状について

      1.自分に詳しく知らせて下さい。

      2.家族にだけ詳しく説明して下さい。

      3.<その他>(自分の言葉で)

 いわゆる「病名の告知」の問題であるが、単にここに印を付けるだけではなく、この「要望書」を書くことを機会に、身近な人と、このようなテーマに関してよく話し合っておくことが大切である。

2)生命の無意味な引き延ばししか保証できないような治療方法は用いないで下さい。ただし、痛みがひどい場合は、あらゆる手段を用いて十分な鎮痛の処置をして下さい。しかし、積極的に命を取ることはしないで下さい。

      1. はい(そのようにして下さい)

      2. いいえ(希望:               )

 どのような治療方法が「無意味な」ものであるかという判断は易しくはない。バチカンの教理省が1980年に発表した「安楽死についての声明」では、治療方法の採用に当たって検討すべき一般原則を次のように述べている:「措置の内容、その複雑・困難さの程度、副作用としての危険の度合い、要する費用とこの措置を用いうることの可能性の程度などを検討し、そしてこれらの要素を、患者の容体、その体力および気力を考慮しながら、この措置から期待されうる成果と比較考慮することによって、採用すべきふさわしい手段・方法を決めることは可能であろう。」

 同声明は続けて以下のような具体的な示唆を与えている:

イ)期待通りの成果が得られそうにもないことがわかった場合は、患者の同意の元に行っていた最新の医療技術の生みだしたばかりの手段を打ち切ってもよい。

ロ)すでに実用化されてはいても、危険が伴っていたり、過度の重荷となるような治療はしなくてもよい。

ハ)死期が迫った場合、か細いあるいは苦しみに満ちた生命の維持でしかないような延命のための処置はやめてもよい。

 「鎮痛」に関しては、患者としては肉体的な痛み以外の苦痛や苦悩ももちろん取ってほしいわけであるが、それは技術だけではままならないことなので、少なくとも、医学的技術によって肉体的痛みだけはコントロールしてほしいということである。ただし、この要望書の大前提が「尊厳性を保って人間らしく一生を全うする」ということなので、「あらゆる手段を用いて」とはいっても、その前提に反するような方法は用いないということは了解済みと考えるべきである。

 ここで、医師として問題となるのが、いわゆるセデーション(sedation, 鎮静)であろう。一般的に考えるならば、もしあらゆる方法を使っても鎮痛ができないのであればセデーションでもよいというのが大半ではないかと推測するが、通常、このような「要望書」を書いている時点では、医学に関して素人の患者にとって、通常の鎮痛もセデーションも区別できていないと思われる。カトリックの倫理観からいって、直接に死を意図していないセデーションは受け入れられると思われるが、セデーションの時期・適応条件および患者や家族への説明に関して医師が専門家として責任を負っていることは明かである。

 また、教会は、正当防衛以外に、人が人の命を直接取ることは倫理に反すると常に教えてきたので、どんな場合でも「積極的に命を取ること」は否定されなければならない。ゆえに、法律的にはいわゆる「積極的安楽死」が容認される場合が将来あり得るであろうが、キリスト者としてそれを認める訳には行かない。これは、人の命は神のみ手にあるという考えに基づいているので、たとえ要望書の作成者がキリスト者でない場合でも、我々キリスト者が勧めて作成する要望書から「積極的に命を取ること」を認める文章は容認できないので、「一般用」の要望書においても「キリスト者用」と同じ文面になっている。同様の意味で、ここで誰かが「2.いいえ」を選んだとしても、その内容が「積極的に命を取ってほしい」というようなものであれば、カトリック者としては受け入れるわけにはいかないので、そのときには話し合いが必要であろう。

3)私が数カ月にわたって、いわゆる植物状態に陥ったとき、私の死を無意味に引き延ばさないで下さい。

      1.はい(そのようにして下さい)

      2.いいえ(希望:               )

 「数カ月」というのは確かに漠然としているが、遷延性意識障害(いわゆる「植物状態」)といってもケースによってかなりの差があるので、ケース・バイ・ケースで判断する必要がありやむを得ない表現である。要するに、そのままの状態に「意味があるか」「無意味であるか」という判断であり、この判断も易しいものではない。そのため、このようなテーマについても、この「要望書」を書くことを機会に、身近な人とよく話し合っておくべきである。

4)死の判定について

    「脳死」と判定された時を自分の死と

      1. 認めます。

      2. 認めません。

 この項目は、たとえ司法で脳死が人の死と認められても、本人の気持ちを尊重するためにもうけた。特に、次項の「臓器提供」との兼ね合いで、臓器の摘出の時期を決定するときに参考にされるべきである。

5) 臓器提供について

      1.臓器の提供はいたしません。

      2.死後、以下の臓器・組織を移植のために提供いたします。

         1. 移植に利用できる全ての臓器・組織

         2. 以下の臓器・組織 :

           1.角膜 2.腎臓 3.中・内耳 4.骨 5.皮膚  6.心臓
           7.肝臓 8.肺 9.膵臓 10.    (以上  点)

<注:臓器(角膜を除く)を提供した場合は、すでに献体団体に登録されていても「献体」はできなくなります。>

 臓器の提供に関して、教会は受け入れていると見るべきであるが、もちろん、それは本人がそう望むのならばということが前提である。人は臓器を提供するように強制されるべきではないし、そのようなプレッシャーをかけるのも隣人愛に反する。臓器の提供をする人を受け入れるのも、しない人を受け入れるのも、全て隣人愛の観点から正しく行われるべきである。

 「2の2」で臓器を選ぶときは、特に、「×」印は重要なので注意を要する。また臓器提供について話し合うときに、本人が「献体」を希望しているかどうかを確認する習慣をつけている方がよいと思われる。

 この「要望書」は、私が熟慮の上、精神的に健全な時に作成し、署名したものであるということは、下記の二人の証人が証明して下さいます。

<証人1>

   (氏 名)            印
   (続柄:    年齢:   )
   (住 所)〒                         
   (電 話)                  
   (署名年月日)      年   月   日

<証人2>

   (氏 名)            印
   (続柄:    年齢:   )
   (住 所)〒                         
   (電 話)                  
   (署名年月日)      年   月   日

 日本尊厳死協会の「リビング・ウイル(尊厳死の宣言書)」も、終末期を考える市民の会の「終末期宣言書」も、この項目を持っていない。なぜなら、それらは、その宣言書を書いた人を「会」へ登録させ、その「会」が保証人となるような形態を取っているからである。そのために、宣言書を書きたい人は登録するために「お金」を払って会員にならなければならないのである。ちなみに、日本尊厳死協会の正会員は年会費3000円、終身会員は10万円で、これにより会員は会員カードの交付を受け「尊厳死の宣言書」を日本尊厳死協会に登録することができる(日本尊厳死協会「会則」第5条)。また、終末期を考える市民の会の方は、年会費2000円で、その会則の「付記」には次のように書かれている:会費が2年以上未納の場合は退会とみなします。「終末期宣言書」を登録する方は、できれば5年分の会費を前納して下さい。5年経つと書き直しと継続の意思を伺います。もちろんその間の書き替えはご自由です。(終末期を考える市民の会会則、8および付記)

  しかし、これでは、実際にそのような宣言書が必要となるときまで、何年、または、何十年かかるか分からないという点を考えると、何か釈然としないものがある。その点を補うのが本「要望書」のこの項目である。これは、アメリカなどでは案外普通のスタイルであるが、2人の証人を立てることによってその内容を保証するのである。この方式であれば、お金を払う必要もないし、変更・書き替えも容易に行えるであろう。日本においてもこの方式で十分であるということは、1995年3月28日の横浜地裁の判決が「医療行為の中止の要件」として挙げている「患者の意思表示」の項で「患者の明確な意思表示が存在しないときは推定的意思によることが許され、推定的意思を認定するには、事前の文書による意思表示(リビング・ウイルないしアドバンス・ウイル)や口頭による意思表示が有力な証拠となる。」と述べているところからも明かである。