郷土研究図書


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書名:綜合郷土研究 1999年7月11日、塩山市立図書館にて閲覧
著者:太田章一(山梨県師範学校長)及び小畑善吉(山梨県女子師範学校長)
序文:文部次官、文部省普通学務局長、及び山梨県知事
発行者:山梨県
発行日:昭和11(1936)年12月20日
発売所:政治教育協会(東京都麹町区内山下町一丁目一番地)

人物とその業績(p757)ヨリ抜粋:

山路愛山先生は又「甲斐は天恵の割合に貧しき所なり、国民の性格は一言にして曰へば、人生の修羅闘場たる意義を極めて露骨に体得したるものなり。彼等の祖先は痩地に育ちたるが故に、生存競争の原理を極めて痛切に感ぜざること能はざりき。彼等は人生を詩歌の如く眺むること能はず。彼等にありては人情も、詩歌も、夢幻も、要するに薄き蜘蛛の巣の如きのみ、彼等は人生を唯戦場なりと自覚す。故に奮闘的なり、小廉曲謹なるざるなり。往々にして極端なる自己中心主義なり。・・・中略・・・彼等の理想は勝利なり。他人を圧倒することなり。人生の思想を露骨に語りて、何の掩ふ所なきなり。」といっている。


文化(p744)ヨリ抜粋:

惜しい哉、武田滅亡の後は徳川直轄領となり代官政治が繰返された。これが各種の文化に影響して消極の面影を濃厚に現し、折角生気溌剌たる甲州文化に沈滞の色を見せた。その主たる理由は、代官は何処までも代官であり、最後の全責任を負わない中継官吏である。要求を下に徹すは上に対して己の役を守るだけの心境である。心から染み出る様な民衆愛撫の責任感を持つことが薄く、取るだけ取るが、その根底培養に熱が無い。
お役目だけの指導が繰り返された結果は、甲州気質を悪性にした。兎角反抗気分が濃厚になり、自我観念が強調される。甲州無宿の侠客が多く発生する。学者が出ても時代を白眼視する、そこ迄行き得ない者は独善主義の隠遁生活をする。
経済生活の不振は功利主義となる。故郷を飛び出して日本全国を行商する。「甲州人と犬の糞」と言われる様な悪評も買った。
然しこれ等は環境の悪化に対する自己防衛とも見られるし、表面を流れている一時的現象とも見られるので、信玄時代に建設された文化が現代甲州文化の基調を為している事を思えば、指導の如何によって甲州人の持つ文化創造の天分を充分に発揮し得らるるものと信ずるものである。

自然的環境と気質(p744)ヨリ抜粋:

地方気質は自然的環境の中に育まれるのである。
本県は四周山を以って囲まれ、其の山も皆高峻、従って隣県と隔絶せられ交通不便の別天地をなしている。

平地は甲府盆地の他に少なく、耕地は狭く、地味痩せて天恵に乏しい。従って生活のための苦闘が必要とされ、空想的な夢を抱かしめない。・・・生活の安易でない事は奮闘的独立不覊の現実的性格を作り、一面率直義侠、他面利己的功利的気風を作りつつある。

歴史的伝統と気質(p745)ヨリ抜粋:

人は前述の如く一方に於いては自然の中に、他方に於いては歴史の中に生活しているといい得る。即ち我が県民は此の甲斐の地に於いて其の歴史的伝統の中に生活しつつあるのである。・・・。
殊に信玄は民に善政を施し、民は後世にに至るまで其の徳を慕い、情誼によって相結んだ。

然るに武田氏滅後、織田、豊臣、徳川氏によって治められ、一時領主が置かれた時代もあるが、享保九年柳沢家転封後は全く徳川幕府直轄の地となり、城代、勤番支配、町奉行及び代官等によって治められるに至った。

代官は大名と異なり其の地に永住して子孫に伝えるものでなく、幕府への奉仕は考えても地方民の為に政治を行うという念は少ない・・・。・・・時に民の膏血を絞るに汲々として・・・。
従って、民は代官を恐れて親しみを有せず、「代官が通れば泣く子も黙る」という風に、心中不平不満を蔵しつつも其の圧政に己むなく従い、為に反抗的気分養われて時に爆発して太桝事件等を起こしたのである。

かくて温和親愛の気は抑えられ、其の気質は鋭角的となり、自ら守るためには古来よりの伝統的精神に基づいて親分子分の関係を生じ、相互扶助し、又強きを挫き弱きを助ける数多の侠客を生むに至った。

県民性の特徴(p754)ヨリ抜粋:

長所
負けず嫌いで、鼻柱が強い。
自主独往的で非常に意志が強く烈々たる意気がある。
率直生一本で、ものに感激し易く仁侠心に富む。尚武の風あり、困苦欠乏に耐へ、勤労を厭はず、満州に於ける武装移民は模範的といはれる。
土着心強く又愛郷心が深い。
勤勉着実、質素倹約の風が強く、独立治産の傾向が著しい。機知に富み俊敏で経済的に敏感である。
自尊心が強く、善と信ずれば飽迄行ひ且つ果断に富む。

短所
潤達の気象乏しく、狭量排他的で邊彊的気質が強い。
先輩は後輩を引立てず、後輩は先輩を支持せず、何れも自己の為にのみ利用せんとする傾向が強く、他人の成功を嫌悪し之を妬む風がある。恩怨の念が強い。
協同心が少なく団結心も公共の為には薄弱である。
物事に理屈多く感情に走り、小善の為他を省みずして雷同する風がある。
投機的射幸心強く自ら実質的努力を払わずして一攫千金を夢見る者が多い。しかし失敗するも泣き言を言わぬ。
自己意識強く利己的打算的功利的傾向がある。
見栄を張る傾向強く華美派手な者が平地に多い。
模倣性強く流行を追う風がある。
現実的傾向強き為、永遠的価値の追求、審美心等情操方面に欠く。
報恩感謝の念薄く、敬虔の念や信仰心に乏しい。
言語動作共に粗野で愛嬌無く社交拙劣、辞令に巧みでない。
頑固で人に下る事を嫌い、時間的観念が薄弱である。

犯罪と県民性(p752)ヨリ抜粋:
昭和8年の犯罪発生件数によれば、文書偽造罪、業務上横領罪、背任罪等は全国的に最も少ないが、賄賂罪、傷害罪、常習賭博、住居侵入罪等は人口の点より見て比較的に多い。住居侵入、賭博は山地にして娯楽機関無き交通不便の地に多いのは教育上心すべき事である。

親分子分の関係(p616)ヨリ抜粋:
親分より捨てられるのは君父の勘当同様に考え、その赦免のない場合は其の部落に永住することは出来ないというような観念をもっている。従って如何なる理由があっても、其の部落に居住する限りは、親分を変えないもので祖先伝来の親分子分関係は永久性を有するものである。

葬儀の改善すべき点(p622)ヨリ抜粋:
(1)不幸の起りたる場合は、直ちに近隣、子分、又は親分、部落内等の者の全家族が参集して手伝いという名の下に飲食をなし、又これらの人々が満足するように充分饗応することが故人に対する唯一の供養であるかの様な考えから、余儀なく冗費を支出せられ、不幸の上に、尚その上塗りをさせられる様な弊風がある。
(2)会葬者には酒食の饗応及び引物等をなし、又一般見舞客等多人数に対しても、引物として銘々にパン及び砂糖を贈る等の風習がある。
(3)付見舞と称して、施主の親戚又その親戚の者迄が会葬する等、一般に多人数集まって大騒ぎをなし、盛典を誇らんとする風習がある。
(4)葬儀当日及び其の前後に於いては、ご馳走と共に多量の酒を消費する習慣がある。
(5)・・・・
(6)・・・・

道祖神祭(p800)ヨリ抜粋:

この祭はその起源はさだかでないが、「裏見寒話」や「甲斐の落葉」などによれば、維新前には甲斐国全円にわたって盛んに行はれて、甚だしい悪風を伴ったもののごとくである。・・・、何れも新婚者を困らせ、祝儀事のあった家より金銭を強請する悪弊のないものはなかったやうである。
現今では、この祭は依然として相当盛んに各地で行われているが、右に述べたような悪弊は殆ど全く一掃されている。大体に於いて山梨県下全円にわたって行はれているが、甲府市内では近時廃れて殆ど行われず、北巨摩の北部、長野県寄りの諸村に於いても近時次第に廃れゆく傾向が見られる。

最も盛んに行われるのは東山梨郡である。今その行事の概略を述べると、正月七日に子供等が組の各戸をめぐりて、門松、しめ、書初等を集め歩き、十一日にはこの門松、しめ等にて道祖神の前に小屋を造り道祖神をその中に祭る。
尚十一日から十三日にかけて子供等が毎晩組の各戸をめぐって金を集め、十四日の夜は成年及子供(子供のみのところもあり)が道祖神、獅子、花嫁、馬等に仮装して、太鼓、鐘なぞ打ならし、「きっかんじょ」と叫びながら組の各戸を廻り家内に入り、「悪魔祓ひの道祖神、お蚕どっさり大当たり、家内安全、五穀豊穣」などと言いつつ、家内を荒れまわる。これに対して各戸では、銭、果物菓子等を祝儀として出す。

(「きっかんじょ」とは薪木の勧化(カンゲと読み、寄付をつのること)といふ事にて道祖神の前にて薪を燃すかんけ銭をねだることであると「甲斐の落葉」に見えている。)

綜合郷土研究」の外観: